えこひいき日記

2007年10月5日のえこひいき日記

2007.10.05

仙台の大学院での集中講義も先週めでたく終了。いやー、働いた、働いた。どこにも遊びに行かず、本当に朝から夕方までびっしり授業しちゃった。普通、集中講義って規定どおりの時間びっしり授業すると、講師も学生も疲弊してしまうので多少早めに切り上げたりすることがあるのだが、今回はほぼ規定どおりびっしり授業しちゃった。それでもやりたかったことの半分もできなかったなぁ。
集中講義に関しては書きたいこと多々あれど、受講生にはレポート提出をお願いしている期間中なので詳しく書くことは遠慮する。レポート書く学生さんに影響してもなんだしね。いつかまた書きます。

仙台には仕事に行ったのだから、遊べなくても当然なのだが、でもどうしても一ヶ所だけ行っておきたい場所があった。それは仙台文学館。ちょうど『澁澤龍彦・幻想文学館』と名づけられた展覧会をやっていたのでどうしても見ておきたかったのである。
何度かこの「日記」の中でもバラしているかと思うが、私は高校生のときに始めて澁澤氏の文章を読んで以来、なんと申し上げるのが妥当なのだろう、「ファン」といってしまうのも自分の中でしっくりこないのだけれども、ともかく、すごく好きなのは確かなのである。あ、でも「好き」というのもどうなんだろう。なんだか恥ずかしいような気がするな。一緒に写真がとりたいとか、サインが欲しいとか、そういうことは一度も思ったことがないのだが(多分、実物が目の前に現れてもどうしたらいいのか思いつけないと思う)ともあれ、彼がお書きになった本はほとんど全部持っている。今年が没後20周年ということで、新たに出版された関連書籍までは全て所有しているわけではないが、でもほとんど持っている。
授業のスケジュールが非常にタイトで、どうやら悠々と仙台文学館に行く時間はない、とわかったとき、私は真剣にあせった。11月半ばまで展覧会はあるのだが期間中にもう一度プライベートで仙台にやってこられるかどうかを真剣に考えたが、それも難しそうである。うーん、うーん、と考えて、授業前に30分だけ時間を作って、展覧会に行くことにした。
開館早々の館内にはほとんど客がいなかった。平日でもあったし。目的に展示室にも私以外の客はおらず、おかげで限られた時間ながらとてもゆっくりと展示を見ることができた。
自分が「マニア」なのかどうかはわからないが、ともあれ澁澤氏関連の書籍はいろいろ所有しているので、展示物の多くはそれらの書籍の中で見たことがあるものだった。それでも「実物」をみるというのは違う。中でも、生の原稿や親しい人たちに宛てたはがきなどの文章を見ることができたことは大きかった。

今こうして書いている文章は、パソコンで、ソフトを使用して書いている。パソコンで文章を書くのと手書きで書くこととの最大の違いは、編集であろう。例えばある文章を書いていて、その文章の途中にある文言を挟み込みたいと思ったとする。手書きであれば、「もともとの文章」のそばに「挟み込みたい文章」を書いて、挟みこみたい部分に印を入れるなどする。つまり、「もともとの文章」がどれで、後から思いつかれた文章がどれなのか、その痕跡が丸ごと紙面に残る。その痕跡は筆者の思考の痕跡でもある。ところがパソコンでは、カーソルを移動して文中に文字を打ち込めば、簡単に文章をつなげることができる。まるで最初からそういう文章であったように。書いた文章を訂正・削除するときなども簡単だ。まさしく「消す」ことができる。しかし手書きでは、斜線を引くなり何なり、「消す」作業さえも作業としての痕跡を成して残る。
私自身もそうなのだが、パソコンで原稿を書くときは、前の原稿をどんどん消していってしまったりする。最後に残るのは、最後の文章だけ。それでいいといえば、それでいいのだが、味気ないといえば味気ない。展示を見ていて思ったのだが、完成して世に出た文章はもちろんすばらしいのだが、結果的に世に出なかった文章たちが語りかけてくることも感慨深いものがあった。時にそれは本編よりも著者の「書きたかったこと」を端的にあらわしていたりするからだ。

澁澤氏の最後の作品『高丘親王航海記』の、まさに最後の部分はこんな文章で締めくくられている。

「ずいぶん多くの国多くの海をへめぐったような気がするが、広州を出発してから一年にも満たない旅だった。」

しかしこの部分は最初、このように書かれていたらしい。

「広州を出発してから一年にも満たないが、その間よくもまあこれだけに国々をめぐりあるいたものとおどろかされる。時間とか空間とかといったものはあてにはならずそれらは入れ子のように伸縮自在だということがよくわかるであろう。」

この文章の中にも、後から挿入された文言の痕跡があったが、それは割愛する。
また、本来ならこの前からの文章を読まないと何を指している文章なのかわかりにくいと思うのだが、それも割愛する。ごめんなさい。ぜひ実際に本を読んでみていただきたい。

ともあれ、「ずいぶん多くの国多くの海をへめぐったような気がするが・・・」の原文がこれであったことに、私は少なからぬ衝撃を受けた。
どういう「衝撃」だったかというと、その内訳はいくつかある。
一つは「澁澤さんでもこういう書き直しをするんだ」という、たいへん単純な感慨であった。彼の文章は丹精で、まるで地中から掘り出された瞬間から輝く水晶のクラスターをみるような感じがしていた。だから、彼の文章に関しては、その文章がこの世に産み落とされたときから「そのカタチ」で生まれ出でたような奇跡をイメージしていたような気がする。でもそうではなく、アタマの中にある「何か」にカタチを与えるための苦悩や模索が彼の中にもあったのか、ということに改めて不思議な驚きと、不思議な納得を感じてしまった。
でもなぜ彼は文章を変えたのか。
上記の二つの文章は、ある種正反対の表現でありながら、同じことを書こうとしている。私ごときがこのようなことを申し上げるのは甚だ僭越なのだが、文章を書いているとこういう苦吟はたびたびあるし、こういう「表現の大逆転」もある。書き方の角度を変えるのは、勇気いるけど。私はまだ未熟者なので、自分が書いた文章に対してエゴがある。その言葉が表現しうるものよりも、まだ自分のカラダから出てくる言葉の生々しさ、ライブ感に対する執着があるのだと思う。それは私が「書き手」として「書くこと」に徹しきれていないということなのかもしれない。それでも、澁澤氏がなぜ最初の文章を訂正し、完成版の文章に書き直したのかは全体の文章の流れを見れば判るような気がする。完成版の文章にしたほうが全体の文章のトーンや流れが整うのである。でも、恐らく、最初の文章を廃して書き換えた理由はそれだけであって、けして最初の文章が何かを表現し切れていないとか、出来が悪いからボツにした、ということではないように思う。むしろ、本当に言いたかったことは最初の文章のほうから伝わってくるような気がするのだ。でも、そちらを載せてしまうと文章の温度が変わってしまう。だからこういう変更を行うのは作家としてある意味とても真っ当な選択であったとは思う。
でも、やっぱり、内容的には最初の文章のほうをお書きになりたかったことなのではないか、と思ってしまう。この文章には渋澤氏の熱、体温が感じられる。その魅力は捨てがたいものがある。そういう文章を目にするのは珍しい。それがまたボツ原稿で、本来公開されないボツになった分得ようにそれがあるのだから、貴重といえば貴重。そういう貴重さもあってか、なんだかこの一文がいとおしいような気さえする。
ただ、こんなふうに喜んでしまうのも読者としての私のエゴなのかとも思ったりする。作家として、彼がこのような文章や思考の痕跡を読者に知らしめることをどの程度まで快しとしているのかも、私には判断できない。後に奥様が書かれた『澁澤龍彦との日々』というエッセイには、原稿を奥様が清書して編集者に届けていたとあり、その理由として「けして澁澤が悪筆であったわけではなく、ただ推敲のあとを残したくなかっただけだろう」という意味のことを書いておられたから、基本的にはやはり完成原稿以外のものを公表する気持ちはないのだろう。しかし一方で、存命中に、出版することを意図してかかれたものではない文章を『滞欧日記』として出版しておられたりもしているから、心のままに書かれた文章の魅力ということも客観的に認めておられたのであろう。そしてそれは事実、魅力的なのである。

そういうことを思うと、私のようにどんどんワードで文章を消してしまうのはどうなんだろう、と思ったりもする。
今回の集中授業の前にも、大量に書いていた準備用の文書ファイルを二つ消去した。そういうことを私はワークショップのたびに行う。書いたものを消してしまう理由は、現場で自分のプランにとらわれないためである。どんなに用意周到に準備をしたとしても、あるいは自分がやりたいと思ったことが溢れていたとしても、ワークショップや授業はライブ。生徒やクライアントの顔を見て、何からはじめるのが、どうするのがふさわしいのかを現場で判断してからでないと始まらない。私の仕事は、自分が予定したとおりにレッスンを進めること、ではない。だから、可能性を自分なりに書きつくした上で、消す、ということを毎度行う。自分の現場判断の邪魔になりそうなものは消す。自分の考えたことでも先入観になるようなら邪魔なだけだ。それに、必要なことをその場で思い出せないようでは、その考えは身についたものではない。膨大にプランや考えを書き出すは、あくまで事前に自分の考えを整理するためである。
とはいえ「消す」作業を「もったいない」と思う自分がいないわけではない。「残しておいたら、何かに使えるかも」「これで本の1冊くらい、書けちゃう分量よ」という囁きは自分の中にもある。でも消しちゃう。思えば、私、個人の日記だってどんどん焚書にするし、私が「書く」のは必ずしも残すためではなかったんだよなぁ、これまで。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはわからない。でも、私がまだあと10年くらい生きてこの仕事をしていたなら、「過程」や「痕跡」を消さずに残すことも考えます。実行するかどうかわかんないけど。

なぜ澁澤氏は文章を変えたのか。あるいはこうも考えられるかもしれない。彼は生涯を通してお書きになった文章の数々の中で、具体的には書いていなくても、「時間とか空間とかいったものがあてにはならずそれらは入れ子のように伸縮自在」であることを既に書いておられるので、この一文をわざわざここに書かずとも「伝わる」という、自分と読者に対する暗黙の信頼感もあったのかもしれない。
そういう仕事の仕方ができたらすばらしいな、と思ったりする。そういう生き方ができれば、と。
「痕跡」は、本当は「残す」ものではなく「残る」ものなのだから。

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