えこひいき日記
2007年10月25日のえこひいき日記
2007.10.25
私の知人に「人は人を殺しうる存在で、人は人に殺されうる存在なのだ」ということを小学生にして背負ってしまった人物がいる。彼は政治家の息子で、小学生のときに父親の外遊に同行し、アウシュビッツ収容所跡を見学した。収容所を見て感じた衝撃が「人は人を殺しもするし、殺されもするのだ」ということだった。おとなになった彼からこの話を聞いた私も少なからず衝撃を受けたくらいだから、当事者である彼はどんな気持ちでこのことを受け止めたのだろうか。それ以降、彼はどこかで人の生死の問題だけを考え続けてきたようなところがある。それは、一般的な生活態度からずれることを余儀なくされるということでもあっただろう。なぜなら、一般的に人は自分が生きていることさえ普段忘れているし、必ず死にゆくものであることも忘れて生きているからである。根本的なことにしか目を向けようとしない彼は一般的なところからずれまくり、若くして暴走族のヘッドになり、悩める若者の相談役にもなったのだが、その後族を解散して、得度して僧侶になった。とはいえ、僧侶になったからといって彼が感じてしまった命題の重みが消えるわけではない。それはゴールではなく、むしろ本格的に自分が背負ったものと向き合うためのスタートに過ぎないからである。今でも彼は時々自分の感じていることに押しつぶされそうになっていることがあるようだし、きらなくてもいいメンチをきる癖が出ることがある。私が初めて彼に会ったときもそうで、思いっきりメンチをきられた。でもそれは、必ずしも拒絶や攻撃ではなく、そういうかたちでしか本気モードにチューンできない彼の癖だとわかったから、驚きはしたけれどもなぜか怖いとは思わなかった。それよりも、一見ジャニーズ系のかわいいお顔をしているのに、もったいない、と思って眺めたりしていた。
「人は人を殺しうる存在であり、殺されうる存在でもある」
最近その言葉が重く自分の胸の中でリフレインすることがある。日に何度も何度も。今私の生きている世界では、七歳の女の子を「知らないおとなのおとこ」が突然刺し殺して逃げたりする。若い力士を同じ部屋の親方や兄弟子たちが死に至らしめて、その事実を隠蔽しようとしたりする。
そういう直接的な殺人だけではない。フィブリノゲンという薬品を投与された人のリストを保有していた組織がその情報を公開せず、ただ人がC型肝炎になるのを眺めていたりする。いや、多分、自分たちがしていることが「人の生死に関わる」という意識すらないのだろう。しかもその組織が仮にも人の命に関与することを仕事にしている組織なのだから、私はどういう気持ちでこの事実を受け止めていいのかわからなくなる。
ある組織関係の元官僚(リスト作成の責任者であった人物)はインタビューでこう言っていた。「リストの作成はそもそも個人に通知する目的で行われたことではない」
てめぇ、どういう意識でそんなことほざいてんの?!リストが何を意味するものなのかわかって仕事してる?!日本語読める?!・・・と、私はテレビの前でキレた。心の中でだけど。怒りすぎると、急には声が出なくなるものなんだよね。息ができなくなった。
こんなふうにして、人は人を殺せる。人は人に殺される。でもこんなふうに人に人を殺させるのは、何なのだろう、と思う。もしも人が人を殺す理由がその人に対する「恨み」でり、人が人を殺すときに抱く感情がみんな「殺意」であったなら、まだわかりやすいかもしれない。しかし上記のような事件の場合、どれもそうではないように思う。人に人を殺させる原動力は感情ではなく、そもそもそこに特定個人に向けられた何かがあったようには思えないからだ。恨みどころか特定の感情もなく、面識もない人間を殺し、殺させるものは、何か。
例えばこう考えることも可能かもしれない。殺し、殺されることは予期せざる結果に過ぎない、と。加害者側の「死ぬとは思わなかった」「そういうつもりじゃなかった」「認識していなかった」という答弁もよく耳にすることではないか。しかし同時に彼らは隠蔽工作もしていることが多い。例えばその場から逃げるとか、誰かを脅して口止めをするとか。そこを考えると「事故なんです」という認識もまた、その事件が起こったときの当事者の認識ではなかったように思う。何か、まずい、ということは感じているから逃げるのだろうし、口止めするのだろう。この「何か」を考えることが大切だと思うのだ。人が死んでしまったことが「まずい」んではない(まずいんだけど)。人が人を殺す、殺される、という重大な出来事として目の前に現れるまで見ようとしなかった「何か」が問題であるような気がしてならならない。
「誰でもよかった」・・・最近そういう事件も多くはないだろうか。まだ自分でも良くわからないのだが、この「誰でも」という感覚の中に、さきほどから問題にしている「何か」に通じるものがあるような気がしてならない。
「誰でもいい」ということは、相手に人格を感じないということだ。その存在に何のストーリーも想像できない、しない、ということだ。
しかし同時に、人に人格や存在を感じる、ということはどういうことなのだろうかとも思う。
都会に住んでいるとちょっと外を歩くだけで多くの人を目にする。電車に乗れば、親密な恋人や家族でもそんなには近づかないという距離に見知らぬ人々がひしめいていたりする。そういう「人」に逐一「人格」や「存在」を感じるか、といわれると、そうではないと思う。むしろ、それを逐一人と認識することを意識的に遮断していたりする。どんなに満員電車の中で人がひしめいていてもお互いに無視をすること・・・それは一種都会の礼儀でもある。でも、徹底して無視することが礼儀にかなうかとそうではない。荷物がぶつかったり、うっかり足を踏んでしまったときには、小声でもいいから「すみません」とか、会釈するとか、そういうちょっとしたことが「礼儀としての無視」を「冷たい無視」ではなく「温かな無視」イコール「礼儀」にしているのだ・・・・と自分で書いていて思ったが、ついつい「どうすることが人を人扱いする行為なのか(あるいは、どうすることが人を人扱いしていない行為なのか)」に執着しがちだが、うん、やはりポイントはそこではないのだ。「無視」イコール「冷たい」「人を物体扱いしている」ことではなく、その仕方、内容によってはそれも十分見知らぬ「人」を「人間扱い」していることになるんだもの。つまり、この場合の「無視」は相手に「人格」を感じているから「無視する」「干渉することを控える」のである。
もちろん「無視」が意図的な悪意に基づいて行われる事だってある。「いじめ」などで問題になるように。しかしその反対に、「相手を無視しない」こともまた暴力になりうる。例えば、ストーカー行為や親子間などでの過干渉がそれではないだろうか。相手を深くたくさん知ることが「相手を知ること」「愛情」のように当事者は認識していたりするようだが、度を越えるとそれは話がまったく違ってしまう。彼らの言う「愛」は、相手に対するものではなく、むしろ、相手を自分の支配におきたい、相手を「わからないもの」として自分の世界の中に存在させておきたくないという不安から来るものであって、それが知らぬ間に相手の「人」ではなく「物扱い」してしまっていたりするのではないだろうか。そういえば、奈良の騒音おばさんの事件などで有名になった隣人トラブル事件をみるにつけても、あれは個人に向けられているようでいてその個人には向いていない何かを感じるのである。当事者にとって「隣人」とはお隣のその個人を指しているのではなく、「隣人」でありさえすれば人格を問わないのではないだろうか。そして「隣人」は彼女にとって無条件に彼女を侵害し敵対する(象徴的?)存在と認識されているように思う。そういえば奈良の騒音おばさんは公判の中でこんなことを言っていたそうである。「あれは嫌がらせではない。私の痛み、魂の叫びである」つまり痛んでいる彼女にはその痛みを癒すべく、叫ぶ「権利」がある、と彼女は考えているのかもしれない。そういえば「どうしてこれを嫌がらせといわれるのかわからない」という趣旨の発言もあったように記憶している。彼女の「正当な権利」であるところの癒しを邪魔する人間は、彼女の論理からすれば「嫌がらせをしているのはそっちのほう」ということなのだろう。
誰でもいい、のかもしれないけれど、具体的にはそれは必ず「誰か」に対する行為になってしまうことを、なるべく早く気がついてほしい、と願ったりする。たとえ本人が何者にもなりたくないと願っていたとしても、必ず固有の「誰か」なんだから。
人とはなんなんだろうか。よく「人を何だと思っているんだ!」という怒りの言葉があるが、茶化すわけではなく、それを言う側も言わせた側も、本当はなんだと思っているのかわかっていないことが多いんだと思う。きりがない問いなのかもしれないけれど、ある程度それを問うてみないと、殺すことの意味も殺されることの意味も本当に理解することができないような気もする。
毎日で何百人、何千人、何万人の人間を目撃したとしても、それは必ずしも「人をみる(みえる)」ということを意味しない。ただの物質として何万人人を眺めたとしても、それは「人」の何かを知るということにはならず、物体の目撃の域を超えない。でも、それを物質とみなすのもまた認識の形式であって、ほんとうは「ただの物質」である人間なんていない。しかし人は確かに物質でもある。その物質が、命であり、存在であり、他者と共通性を持ちつつもそれぞれが固有であることの多重性を、どのような言語で表すのがふさわしいのか、私にはまだわからないでいる。
「リストの作成はそもそも個人に通知する目的で行われたことではない」・・・私なりに翻訳すると、厚生労働省の人間が「自分のしていることを「仕事」と認識した途端、私は人が人にはみえなくなるんです」と言っている、というふうにも聞こえる。人が人を人だと思うのはそんなに難しいことなのか。簡単だとは思わない。でも、難しいことなのか。難しいから、やらなくていいよね、と思うくらいのことなのか。
考え続けていかなくてはならないことが多い。