えこひいき日記

2008年2月13日のえこひいき日記

2008.02.13

福岡ワークも無事終了。楽しい2日間だった。普段は個人レッスンを中心に仕事をしているが、ワークショップにはワークショップのよさがある。もちろんそれは参加してくださる方の意識の高さ、モチベーションによるものなのだが、楽しかった。皆さんには「末永く悩んで欲しい」。それから、スタジオのスタッフ皆さんの暖かさ。ありがたい。本当に気持ちよく仕事をさせていただくことができた。

福岡に行く日は雪だった。吹雪に近い状況というか。空港バスに乗って空港まで行ったのだが、大雪なれど高速道路の流れは順調。飛行機の出発も定刻どおりで、「おぉ、順調じゃん」と思っていたら、滑走路で飛行機が引き返し始めた。「翼の上に雪が積もりすぎたので、それをおろして、雪がつかないようにする薬剤を塗布してから出発します」とのことだった。飛行機には小さいころから乗っているが、こんなの初めて。私は国内のフライトでは窓側席をリクエストすることが多く、その日も窓側の席に座っていたのだが、確かに翼といわず機体の上部に積もっていたのであろう雪がなだれのように窓の外を滑り落ち続けていた。「雪ってすごいなぁ」などと思った。そのせいで福岡到着は1時間ほど遅れたのだが、分厚いガラス窓の外を滑り落ちる雪を眺め続ける体験はなかなか貴重で、本当にあの「雪の結晶」が立体的に重なったりくっついたりしたものが「雪」なんだ、ということが見えて、すごく面白かった。それを眺めているうちに眠ってしまい、気がついたら福岡だった。私は移動中、本当に良く寝る。帰りの飛行機でも爆睡で、気がついたら大阪だった。
そして昨日もすごく眠ったんだよね。11時間くらい。考えてみれば、福岡に行く直前まで普段の仕事と経理の〆作業などやっていたので、睡眠時間は少なめだった。そのせいかちょっと姿勢を変えても心臓吐きそうなくらい動悸がするときもあったから、疲労のピークだったのだろう。でも眠ることができれば回復するのだから、基本的には健康なのだと思う。
「健康」なるものを損なう要因は、外からやってくるウィルスや、事故などだけではなく、自らの行動によって引き起こされること(「過労」という名の「過剰さ」などが代表的だろうか。あと、いわゆる「生活習慣病」。ただこれらはそれぞれ性質が違うけれども、関連性もある)にもある。そしてこっちのほうが深刻なんじゃないかと思う。ずっと遊びほうけているより、ずっと仕事しているほうが対外的なウケは良いことが多いのだが、どちらがポリシーのある生き方か、といわれたら微妙だな、と最近思う。「仕事をする」とは何か、ということに疑問を持たずずっと仕事をしているなんて、生き方としては「ただの怠慢」である。最近本当にそう思う。反省も含めて。

「健康」に対して無疑問になることだって、「怠慢」に通ずる。ちょうど福岡ワークのスタッフの皆さんや参加者の方々とも話していたのだ。「幸福」と「健康」の関わりについて。
「健康」は、よいことだと思う。しかし「健康でいなくてはならない」「健康にならなくてはならない」としたら、それは生き方として幸福だろうか。
フィットネスだの、ボディワークだのというくくりでまとめられることが多いさまざまなことがらは、この「健康」というやつと結びつけられて語られることが多い。私の仕事もそうだし、ワークショップに参加して下さった方々の職業も「健康」というものに関わることが多い。さらに、昨今では厚生労働省もキャンペーンを張っていて「寝たきり防止」とか「メタボ対策」と称してせっせとからだを動かすことを推奨している。企業にはある種の健康対策を推奨して、メタボ社員を何人減らしたら企業にご褒美、なんている制度も用意していると聞く。
さっきも書いたが、「健康」は悪いことではない、と思う。しかし、ただからだを動かしゃぁ「健康」なのか、「寝たきり」にならないことだけが本当に「健康」なのか、「メタボ」な人間はそんなに人間として不幸なのだろうか。その決定は行政によって下していただくようなものではなく、最終的には個人の自由だと思う。老いや病気はけして「敗北」ではない(だいたい、「勝ち負け」ですらないと思う)。「健康」は全体的な意味での「幸福」の構成要素のひとつに過ぎない。だから、なにをもってして「健康」というのか、も、個々人によって違うと思う。

しかしながらわれわれが生きているのは資本主義社会。価値のあることもないものも、お金に換算されることが多い世界である。そういう意味で、「健康」はお金になる。「健康」を維持したり、得たりする市こともお金になるが、それと平行してこういう価値観もあるような気がする。「健康」でいてもらうことが、「病気」になることによって生じる経済的損失を防ぐ、という考えである。うつや睡眠障害による労働効率の低下、花粉症人口の増加によってどのくらいの経済的損失が生まれうるか(花粉症グッズが売れて儲かっていいね、という一方で、花粉症にかかっている人たちの労働ペースや、安全対策費にかけなければならない費用は「損失」にカウントされる)という話、介護保険制度や医療費負担の問題などを考えると、「健康でいてね」というよりも「お金かけさせないでね」といわれているような気がしないでもない。
経済安定や国家予算のために「健康」でいろ、といわれると微妙にむかつくが、それ以外の意味でも「健康」の大切さはあるから、「それ以外」の部分をメインに自分なりの「健康」を考えて行けばいい・・・・のだが、「こんな健康の押し付け方ってむかつく」ということにすら気がつかずに「健康」を礼賛するのは、やはりうっすら悲しい気がする。

今回のワークショップでもちらっと言ったのだが、フィットネスの市場はなかなか活発である。次々に流行り物のエクササイズを導入して「最新」を謳い、「効果の高さ」と「手軽さ」をいかにセットにして顧客に売り込むかに知恵を絞り、「1ヶ月○○円でクラスを受け放題!」などのお徳感で、客をつかもうとする。それはいわゆる「企業努力」として評価されるべき面もあろう。しかし一方で、インストラクターが会社命令でにわか講習を受けさせられて「お前は明日から○○のインストラクターをやれ」といわれたり、それを断るポリシーのあるインストラクターほど切り捨てられるという現実もある。インストラクター自身が自分のスキルを高める時間もなく、どんどんクラス指導に消費され、彼ら自身の「健康」があいまいになっていったりもする。「客を喜ばせろ。希望通りにして、“指導”なんかするな」とさえいうジムも、実は存在する。あるいは逆に「会員にはとにかく汗をかかせて“やっている気”にさせろ。同時に、どんどん難しい課題を出して“自分ができていない”ということを認識させろ。それが続く間は通ってくるから」と、「強引さ」を「説得力」と思わせる指導を要求するところもあると聞く。

そしてもうひとつ、私が危険だと思うのは、「すべての運動をエクササイズとしてしかみなさない」という認識のあり方である。以前「あるある大辞典」がらみのことをこの「日記」の中で書いたときの話ともかぶるが、「○○に効く」だけが人間の行動原理になっていいのか、という話でもある。
本来、芸事は、エクササイズとは違うのである。しかし動いていればエクササイズ、とみなす、かーるい風潮があるようだ。そういえば、以前何気なく夕方の情報番組を見ていたら、新しくできたダンス・スタジオの取材に来ていたレポーターが「○○ダンスって、こんなにすごいスポーツなんですね」と満面の笑顔で言っていたのを見て、ひっくり返りそうになったことがある。ここまで表面的で明るいおばか発言ではなくても、激しく動いていればそれはスポーツ、エクササイズ、んで、「これってどこに効くんですか?」と聞く、という、恐ろしくも罪の意識のない「ばかのフリーフォール」は残念ながら珍しくはない。
例えば、バレエ。以前からいわゆる「お稽古事」の定番ではあったが、最近では「大人のバレエクラス」もかなり増えて人気である。そうしたクラスに来る人たちの多くは、バレエそのものを学びたいわけではなくて、「(バレリーナみたいに)やせたい」「姿勢がよくなりたい」「健康になるかと思って」といった動機が主体であることが多い。そういう学び方が悪いとは言わないが、それは本来の「を踊る」とは違うのよ、ということも認識してほしい、と思ったりする。バレエはエクササイズではなくて、表現芸術なのである。そのからだの動きは、「からだにいいから」やっているわけではなくて、「その動きをする必要性があるから」している「表現」なのである。もちろん、バレエは相当高度に肉体を使う。だから、単に運動神経のよさや体力に頼った無茶では踊れない。きちんと肉体を訓練し、それに意思を通わせ、高い表現へとつなげるためにも、「正確に」からだを鍛え上げる必要がある。バレエダンサーの美は、そうしたことの結果の形なのだが、「やっていることをまねすれば、私もああなれるかも」と思ってしまうのは人情なのだろうか。わかるけど、違うのよ、ということを理解し、本来の姿をリスペクトして習ってほしい、と思ったりする。
同じことが日本舞踊や古武術にもいえるのではないか。そういえば、私のところにとあるDVDと冊子が贈られてきて「評価してほしい」と言われたことがあった。それは「日本舞踊の動きがいかにからだにいいか」を謳ったDVDで、とある大学教授が製作したものである。日本舞踊の踊り手に筋電計をつけて所作をしてもらい、「ここの筋肉をこんなにつかっているから、からだにいいのだ」「日本舞踊は実はこんなにアクティヴで、からだにいいのだ」といっているようであった。舞踊を医学的・科学的な見地から見てどう見えるか、というリサーチには意味深いものがあると思う。しかし、この本において書かれていたのは表層の筋肉の名称だけであり、深部筋肉のことや、微妙にして絶妙な筋肉や関節の連動については触れられていなかった。それは、現実に取りうる検証方法の壁でもあるらしい。実際に生きて動いている踊り手の深部筋肉に計測計の針を突き刺すわけにはいかない。だから、検証しうる範囲で物事を述べているという意味においては誠実なのだが、実際問題としてこの結論付けの仕方は踊り手の実感と食い違うものではないかと思う。
踊り手が踊るのは、踊ることがからだにいいからではない。私たちが「からだにいいから」生きているのではないように。私たちがよりよく生きていくために、それに「いい(合う)」からだが必要なだけだ。ただし、本当に「生きる」ことをしたければ、だけれども。
「からだにいいから」という理由で、バレエや日本舞踊、お茶や武術を習ったり教えたりするのも、悪くはないと思う。でも、願わくば、それは他者に対する方便であってほしいと願う。その言葉を使うことによって、他者からそれをすることを邪魔されないための、自分の内なる自由を守るための、方便であってほしいと願う。
でないと、バレエや日舞や武術をする人の数は増えても、「できる」人はどんどん減っていく、というオソロシイことになりかねない。「からだにいい」という認識がはびこることが「文化」を滅びさせるとしたら、からだになんかあんまりよくなくてもいい、と私は思っちゃいます。(暴言!)

インストラクターとしてちゃんと仕事をするということは何なのか、他者の「からだ」に携わるとはどういうことなのか・・・この答えを出しがたい問題にちゃんと向き合おうとして、私のワークショップや個人レッスンを受けてくださる方々の存在に深く感謝する。そういう人たちがちゃんとどこかでやっていてくれる、と思えるから、私もこの「砂嵐の中で叫ぶような」仕事を続けていけているような気がする。

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