えこひいき日記

2008年2月23日のえこひいき日記

2008.02.23

先日、ある版画の売約を取り交わしてしまった。絵を買うのは、考えてみればはじめてである。額装したプリントものを所有することはこれまでにもあったが、そうした大量生産ではない絵画作品を購入するのは初めてだ。でも、画廊でその絵を拝見して、どうしてもどうしても気になって、帰宅してから電話で売約してしまったのだ。自分の中で「わー、なんてことを!」と暴れる自分と(小さくない買い物だからね)、水のように静まり返ってうなずく自分とが混在していて、変な気分になる。
画廊は、その作家の作品展の会期中だったので電話口でこのようにおっしゃった。「それではしばらく版画をこちらにお貸しくださいね」私は次のように応えた。「もちろんです。多くの方に見てもらったほうがよいと思いますから」
そうすらすらと言ってしまってから、「?」と思った。私は、本当にその絵をたくさんの人に見てもらいたいと思っている。それはその絵が素敵な絵だと思うからだ。作家のファンもたくさんおいでになるし。しかし「多くの人に見てもらいたい」絵を、私は個人で「所有」しようと思っている。矛盾していないか?と、思ったのだ。でも、その絵が欲しいのも事実。この気持ちって何だろう?

わからなくなったので、休みの日に東京に行くことにした。たまたま、東京のある画廊で、その作家の新作彫刻展が開かれていたからだ。新作は、私が売約した版画と同じテーマの作品なのである。それと、別の美術館でも常設展の中で彼の版画がたくさん展示されることを知ったので、そっちにも行ってみた。「多くの人に見てもらう」。私が思った一方の気持ちを満たすのは、こうした美術館のような場所である。そこで、同じ作家の作った版画などを見て、何がわかるという確信もなかったが、わからなくても見たほうがいい、と思った。

洲之内徹という人が、かつて著書の中で「よい絵というのは盗んでも欲しくなるような絵のこと」とおっしゃっていたように記憶している。自分で自分に「盗んでも欲しいか?」と聞いてみるのだが、この問いかけに対してはすらすらと返事はしてこない私の中の私。

美術館と画廊を巡って、得た私の結論は「私が欲しくなる絵は、私との関係を感じる絵である」ということになってしまった。身も蓋もねぇ。名画、すばらしい絵はいっぱいある。でもそれらをすべからく「欲しい」と思うかというと、違う。「よい絵」が「欲しい絵」とは、私の場合限らない。このあたりがかつて画廊も経営していた洲之内さんと、個人で絵を所有しようとする人間との、「目」の違いなのだろうか。そして「盗む」までもなく、その絵は「私」との「関係」において、既に「わたしのもの」なのだ、とも思った。すんごい傲慢に聞こえる言い方かもしれないけれども。
でもそうなると同時に、「既に、わたしのもの」であるならば、「所有」しなくてもいいじゃないか、と思ったりもするのだ。実際、私はとっても気に入った美術品や仏像を「わたしにもの」と定めて、その美術館や博物館、寺院に「おあずけしている」ことにしていることが多々ある。もちろん、バーチャルに、である。私にとってはその作品が「手元にある」ことよりも「この世に存在している」ことが大事で、しかも「また見にこられる」場所にあることで十分ありがたく、それ以上の欲望を抱くことは今までなかった。
では何が今までと違うのか。
問題になるのは絵との関係を感じる「私」とはいかなる存在か、ということである。結局、こいつがわからない。それがわからないから、感じている「関係」とは何か、と問われても、明確に答えられない。

最終の新幹線に乗る前に、お世話になっている編集者に会った。池田晶子さんの話が出て、彼女の意思(遺志)をついで、あるNPO法人が設立されることを聞いた。法人の名は「わたくし、つまりNobody」というらしい。(ただし2月中は左記のアドレスからは見られないかもしれないので、関連事項に関しこちらからどうぞ ※現在はリンク切れ)話は、関係あるのかないのかわからないが、「所有」に関わらないでもないお話になった。
池田さんはかつてこのような言葉を著作の中で書かれていた。「言葉は私を超えている」と。「意味に気づくと、人は「自分の言葉」なんてものをもてなくなっちゃうんですよ」と。(『暮らしの哲学』 毎日新聞社より引用)「なにも私が書かなくてもいいこと」というふうにも生前おっしゃっていたらしい。確かに、普遍的なもの、本質的なものに個人的な所有権はない。特に「教育」などのジャンルで伝えて行くものには、本質的には個人的な所有権がない事柄が多いように思う。

私のようなものでも時々それを感じる。私の書いたものを見て、「わかる!」とか「私が思っていてもうまく言えなかったことが文章になっている」とおっしゃってくださる方がいる。そういうとき、それを書いたのは私であっても、そこに書かれている「考え」は、私だけの「もの」ではない、と思う。逆に言えば、「ここの書かれたものを読んで、あなたが何かを理解されたのでしたら、あなたのその理解は私のものです」と言われたらとしたら、すごく混乱(嫌悪)しないだろうか(だが、実際には居るんだよね。そういうこと言う人)。レッスンの中でも、その人の身体の中に「既に存在する」筋肉や関節についてお話して、その人の動作が改善されるということは多々あるが、もしも「あなたの股関節は私がわからせたのだから、あなたの股関節は私のもの」と私が言い出したとしたら、オソロシくはないだろうか。すごく混乱しやすい問題だけど、普遍的で、真実に近いものほど「(知的)所有」という感覚からは遠いと思う。
ただし、念のために申し上げるが、そこに「誰かのもの」という「所有」がない、ということは、そこに誰かとの「関係性」が存在しない、ということとは違う。誰かに言われて気がつく、その「誰か」が誰であるかは、「私」にとってやはり大切なことだ。たとえ「誰か」から気づかされたことが既に自分の中に「ある」ものであったとしても、「誰か」が身近に生きている人であっても、会ったこともない既にこの世にない人であっても。そこに「人格」を認め、最低限のリスペクトをし、感謝があるほうが「関係」として自然だと私は感じる。そのリスペクトの形のひとつがいわゆる「知的所有権」なんだと思うし(けして金銭的な利益を保護する意味だけではなく)、そのリスペクトがまた、所有なき普遍性を支えるものだとも思う。
私がこれまでクライアントさんからおっしゃっていただいてとてもうれしかった言葉の一つに「名医は術のあとを残さず、といいますが、先生のレッスンがまさにそうでした」というのがある。レッスンで私が具体的に使った言葉や、した動作なんて、口の中に入れたとたん溶けてしまう綿菓子のようにその人の中で消えて欲しいと、いつも思う。それは「消えたい」とか「残したくない」ということではなくて、むしろ具体的に何をしたとか、どういわれたかに固着しなくなることが本当にその人にとって「身につく(残る)」ことだと思うからだ。でも、逆のことを思う人もいる。私がレッスンでしたことや、行った手順、言った言葉を、真似たり守ったりすることが「身につける」ことだと思ってしまう人もいる。たぶん、私がこの仕事を続ける限り、向き合わなくてはならない矛盾だ。いつも砂嵐の中で叫んでいるような気分になる。それでも・・・

「私(だけ)のものではない」ということが、「わたくし」にとって大切なんだ、ということはよくわかる。レッスンで、私の行ったことがその人に通じて、からだや動作が変わる。それはなぜなのか、と考えたときに「意味」の発見は巨大である、といわざるを得ない。そしてその「意味」は個人に所有できるようなものではないのだ。なぜなら「個人を超えているから」。私が理解する限り、ここで言われている「わたくし、つまりNobody」とは、「誰でもない」という意味の「Nobody」ではなく「(固有、個別の)誰かだけではない」という意味の「Nobody」なんだと思う。
しかしながら・・・と、またも私は思う。「思っている」のに「できない」というのは、どういうことか。思いや思想が「ない・わけではない」のに、でき「ない」、言え「ない」のは、そこになにが「ある」からか。「できる」能力を持つ関節や筋肉を最初から物理的には有しているのに、何かが「ある」せいで、関節や筋肉の能力、あるいは存在そのものが欠損しているかのごとくに動けないことがあるのはなぜか。そこには個(=個人、シチュエーション、ケースetc)を個たらしめる何かがあるような気がする。それは「理解」の共有やアウトプットを阻む「壁」と呼べるものかもしれないけれど、その考えや思想に具体を与える「うつわ」とも言えるものかもしれない。私はこの何か・・・おそらく、body・・固有性・・・に対して執着がある。だからそれに「no」をつけるセンスは、たぶん、私のリアリティにはない・・・と感じて、自分でも驚いている。「意味」ではなく「言葉」にこだわるなんて、ただの意固地かも知んないけど。でも書くときに「意味」を「言葉」でしか伝えられないとしたら、どうしたらいいんだろう。すごく共感しているのに、選び取る言葉が違う、と感じてしまったことに対して、かるいパニック。(だって、池田さん、好きなんだもん。)(でも違う人間なんだから、当然、とも思っている。選び取る言葉が具体的には違っていても「意味」は通じなくもない、ところも不思議、と思ったり)

気がつけば本日は池田晶子氏の御命日である。1年が経つのである。しかしながら、彼女は今も多くの人に支えられ、また多くの人を動かし、仕事をしておられる、と感じる。すごいことだ。人が生きていることや、死んでいることって、やはりすごく不思議だ。とてもではないが、隔絶されたこととは思えない。

でもわかんないことだらけなの。パニック。

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