えこひいき日記

2008年4月6日のえこひいき日記

2008.04.06

先日、やくざに背中に熱湯をかけられる、という夢をみた。夢の中で「ぎゃぁぁー」とすっごい悲鳴を上げたのだが、悲鳴を上げながら「あれ、熱くない」と思った。そのとたん、目が覚めた。寝相は「ぎゃー」と悲鳴を上げたときの、夢の中での格好のままだったが。
「ぎゃー」は、たぶん、恐怖に対する反応。熱湯の熱さを感じてのものではなく。でも「ぎゃー」と反応してしまったとたん、それはかけられた熱湯に対するものだと勘違いしてしまいがち。その「勘違い」が恐怖を「現実」にしてしまう。やくざによってではなく、自分の想念で。
もしも夢の中で「熱くない」ことに気がつかず、恐怖に身を任せていたら、私は今も夢の中で泣き叫んでいるのかしら、と、目が覚めた後、少し思った。

現実の中で思い悩んでいるとき、私は夢の中ですごく冷静になっているときがある。
自分で悩んでもしょうがない、AかBかどちらがよいかなんてある意味人智を越えていて簡単に良し悪しを言えない、自分に選択権があることでもない・・・そうわかっていても、悩んだり泣いたりしてしまうとき(こと)がある。そういうことでどうしようもなくなったとき、私は墓参りに行ったりする。墓参りや社寺参りをすると、妙に落ち着く。別に宗教的・霊的・シュピリチュアリズムな意味合いで霊的な存在を信仰しているわけではない。ただ、へんな言い方だが、そこは私にとって「逃げ場がなくなる」場所のような気がして、よいのだ。こういう墓参りには「覚悟」がいる。そこに足を向けながら自分の中に「逃げ」を作るようになったら、私は人でなしの嘘吐きで、もう人間終わりだと思う。
本当に向き合ってみてもいないのに、自分が受け止めるべき答えなんかみえるわけがない。でも、向き合っていないくせに、向き合っているような錯覚をしたり、向き合っているふりをして、一所懸命なふりをして、自分をごまかしているときがある。それが例えば、上記の「ぎゃー」のようなものだ。本当には感じていないものに反応している。自分で生み出した恐怖を他者から与えられたもののように感じて、おびえることしかできない。そういう「プレイ」をしているひま、ないですもの。いろんな意味で、時間がないの。
今回は「夢」と「墓参り」の二本立てで辛くも「プレイ」を回避(脱出?)できた。墓の前で流す涙は、自分ひとりで泣いているときとは何だか質が違うから不思議だ。脱出(?)してみれば、何のことはない、まるで寝ていた人が起きるように、普通で自然なことだと思う。でも、寝ているときでも、人は起きているかのように夢をみて、起き上がるまでそれを「現実」だと思ったりもする。そして起きて現実を生きているつもりでも、それはおこる。私は何度ちゃんと朝が来て目覚めて、ちゃんと眠って、寝ぼけず目覚めて、生きていくことができるかしら。まあ、やれるだけ、やろうと思う。できるだけ。できるだけね。

そいえば、先日、くるねこ大和氏の『くるねこ』を読んで大泣きした。にゃさんが死んでしまうところもいきなり泣いたが、5にゃんたちがそれぞれおうちにもらわれていくところでも、別の意味で大泣きした。ちなみに『くるねこ』はくるねこ大和ブログから本になった漫画です。笑って、泣けます。

猫といえば、VAIOのホームページで『町田康のVAIOキャット・ストーリー』というのが公開中。その中で町田氏は「猫は何一つ悪いことをしない」「世話をしているというよりも、むしろさせてもらっている感覚」とおっしゃっている。うむー。既に仏の境地。くるねこ大和氏も、どうやら猫さんに選ばれてしまっているお方のようだが、応援しちゃいます。がんばれー。

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