えこひいき日記

2008年5月23日のえこひいき日記

2008.05.23

ふと思い立って、浦沢直樹氏の『MONSTER 完全版』(小学館)を読み返した。それと、ジャック・アタリ著・金塚貞文訳の『カニバリズムの秩序 生とは何か/死とは何か』(みすず書房)も。買ったときには気がつかなかったけれど、『MONSTER 完全版』の帯には「応募券」がついていて、それを集めて応募すると全員に「めざめるかいぶつ」のポストカードがもらえるということで、応募しちゃった。えへへ。

『カニバリズムの秩序』はすごく面白い。「カニバリズム」とは、いわゆる食人であるが、この本の中ではそれを「他者を喰い、自己を回復・強化すること」にまで広げ、自分と他者、生と死に向けるまなざしについて書いている。お勧めである。
そして『MONSTER』も。これは、ヨハンという「モンスター」をめぐる物語サスペンスでもあるのだが、物語が進むほどに、実は登場する人物の誰の中にも「モンスター」が存在することに気がついてしまう物語であるような気がする。そして読者である私たちも、多分自分の中に「モンスター」を飼っている。「モンスター」が内側から人を食い破ろうとすること、むしろ食ってくれと望むような喰われる者の奇妙なせめぎあい(共存?)は、私にとってはフィクション以上のリアリティがある。日ごろ、いろんな人を見ているせいかな。本人が、自分が思っていると思っていることと、実際に思っていることが違っていたり、思っていること、言っていることと、していることが食い違っていることに気がつかないまま、自分は矛盾のない一人の「わたし」であると信じきっている人間の奇妙さに触れる機会が多いせいからかもしれない。
人は自己を存続させ、「悪」から自分を守るために、強い力にあこがれる。それと同化して自分が強くなることを望む。それは古代の人でも、物語の中でも、現代人でも変わらないものかもしれない。強いものを喰って強くなり、強いものに喰われて「強さ」と同化したいと思う夢。権威や権力などの「強い力」に寄り添い、ブランドや情報で身を固めて、自己を強化して何らかの「悪」から身を守ろうとする現代人の中にも、古代の人の思いの中にも、変わらぬ何かがあるのかもしれない。
ただし、「悪」から逃れるために欲した「強いもの」が果たして「善」なのか、それとも実は逃れようとしていたものと同種のものなのかは、容易にはわからない。どちらも強い。そして質的にはまったく違うものなのに、一見とても似ていたりする。ちょうど「希望」と「恐れ」は時々とても似ているように。どちらも、まだ見ぬ未来に抱くものなのだが、まだ見ぬものに対して「こうだったらいいな」と思うのと「こうならなかったらどうしよう」というのは、似ているようでずいぶん違う。「恐れ」に基づいた行為とそれがもたらすものは、とてもじゃないが、幸福ではない。

そういえば、私は一度クライアントの親から「ばけもの」とののしられたことがある。「私の子供のことを、私以上にわかるのは先生も同じばけものだからなんでしょ!?」と。
私のクライアントは、摂食障害だった。レッスンを受けにきた最初の理由はそれではなかったが、それ以前から潜在的にそれにつながる問題を抱え持っていて、あるときに著しい体重の減少を示し始めた。本人にそれとなく体重の減少を聞くのだが、本人は「そんなことないです!絶好調です!」と言って認めようとしない。しかし体重の減少が止まらないので、本人に「病院で健康診断を受けてきてくれ」とお願いし、病院にいってもらった。そこで体重を計測したところ、飢餓状態のレベルだったので即刻入院となった。本人はパニックを起こし、病院で暴れたようである。私のところにも連絡が来て、病院に出向くことになり、そこで私は初めてクライアントの両親と会った。
両親は、口では「子供をよろしくお願いします」というのだが、敵対心むき出しなのがよくわかった。親でもないのに、他人のお前に何がわかる、我々に構わないでくれ、という内心が、それとは裏腹な態度の下にはっきり透けて見えていた。協力的でないことは最初からわかっていたが、それでもクライアントの回復にはご両親の「最低限の理解」が必要であることを繰り返し説明した。私のクライアントの状況には、家族との関係が深く絡んでいたからだ。でも、結局よくわかってもらえなかったと思う。「最低限の理解」・・・それは、子供の行為や心理を全面的に肯定しろという意味ではない。親として完璧に子供をコントロールしろとか、この症状を自分の恥として反省しろ、と言っているわけでもない。ただ、自分が「そんなつもりじゃない」つもりで行ったことや言った言葉が、相手にとっては「そんなつもり」に思えていたことがあったことや、両親の目から見ると「こういうつもり」に見える子供の行動が、そういうつもりで行ったことではないこともあるんですよ、ということを知ってほしかっただけであった。でも、両親にとってはただ自分たちが責められているようにしか受け止められなかったのかもしれない。そうして返ってきた言葉がそれであった。
「私は、まともだから、あの子のことがわからないんです。先生は、あれなんですよ、子供と同じ、同じばけものだから、あの子のことがわかるんでしょ!」と。

「同じ」でないと「理解」ができない、という発想がどうして生まれるのか、私にはよくわからない。私にとって「わかる」は、それが「違う(私にとって新しい)(私の既存の認識と異なる)」ということがまず認識され、「違い」を含めたその内容がみえてくることだからだ。同時に自分が何を考えている人間なのかも、どうしようもなく見えてくる。「同化」=「理解」という認識は私の既存の認識はないものだし、今後もその考え方を私が使うとは思えないのだが、そういう考え方が現に存在していることは、わかる。私とは異なるものに触れてみたからこそ、それがわかりやすくなる。私とって「わかる」とはそういうことである。
もしも「同じ」でないと「わかる」ことができないとしたら、自分とは違う他人を受け止めることや、自分自身が変わっていくことさえも、難しいんだろうな、と思う。だから、放っておいてくれ、考えろとかいわないでくれ、という態度になるんだろうな、と思う。「自分と同化しない人たち」というのは、みんな「敵」で、その「敵」たちはみんな「同じ一味」に思えるのかもしれない。

そういえば、ある大学教授が、いわゆる「モンスター・ペアレント」という言い方はよくない、と話しているのをテレビのニュースで観た。「モンスター・ペアレント」とは、学校などに少し常識を逸脱しているのではないかと思えるようなクレームや要求をしてくる親のことをさす言葉である。アメリカでは「ヘリコプター・ペアレント」といわれることが多いようだけれども(これは、どのからでも子供のためにヘリコプターに乗って乗り込んでくるような親、という意味らしい)。教授は、「モンスター」というのは、相手の人間らしさや人格を否定するような言葉だから、この言葉を使うことによって、お互いのコミュニケーションが絶たれてしまう、という。それよりは、内容的なものを指す言葉「いちゃもん」のほうがふさわしいのでは、と話されていた。なるほど。関西人のほうがニュアンス的にわかりやすい言葉かもしれないが、「モンスター」よりは「いちゃもん」のほうがはるかに愛嬌がある。どちらも困っちゃうものだけれども、「いちゃもん」のほうがまだ相手の中に「聞く耳」の存在を感じる。

「聞く耳」は、世界と自分とをつなぐ最後の「蜘蛛の糸」だ。たとえすぐには行動に変えられなくても・・・口をきけなかったり、手を出すことができなかったとしても・・・「聞く耳」を閉じなければ、いつかそれが言葉や行動につながることがあるんじゃないかと思う。今はぴんとこない言葉でも、いつかその言葉の意味が「聞こえる」日が来るんじゃないかと思う。希望的観測かもしれないけれど。
こんな希望的観測、いわゆる「モンスター」たちに通じるのだろうか、と思われる方もいるかと思う。私とて、確信があるわけではない。私の知る限り、確かに彼らは世界に通る回路を閉じて、「鎖国」することで自分を守ろうとする。「耳」とか「目」とかもそうだし、筋肉の緊張も非常に高いことが多い。筋肉の緊張が高いと、触覚を含め、温度への感覚や痛覚なども物理的に鈍化していることが多い。要するに「感じない」からだになってしまっているのだ。「感じない」からだでも感じてしまう刺激は、通常レベルからいうとかなりひどい負荷や疲労に達してしまったものであることが多いし、相当程度の負荷に達するまで認知しないから、おのずとそれに対する対処や反応も遅れて、さらに負担を増す結果になっていることが多い。つまり、彼らにとって「感じる」というのは「苦痛を感じる」ということに等しい。他者に対する攻撃性の裏には自分自身の痛みが存在していることが多い。
鶏が先か卵が先かみたいな話かもしれないが、「感じない」方法しか自分を守る術を知らないというのは、つらいと思う。彼らの多くはかなりのさびしがり屋であり、他社に対して依存的で、常に自分に同意してくれる「仲間」を求めてやまない。「仲間」から嫌われたくなくて、「仲間」に対しては極度に自分を殺すということも多い。その反動が「自分とは違う人たち」への「いちゃもん」として噴出するようなところもある。彼らの行動は過激だが、心は「びびり」なのである。少なくとも私が仕事で接したことのあるその種の人たちはほとんどそうであった。
でも、彼らの「耳」は、閉じても閉じても、聞こえているんだと思う。ただ、彼らの「耳」のは、自分が理解できない事柄はノイズとしてしか聞こえていないのかもしれない。でも、いつか、ノイズだと思っていた音の中に何かわかること、意味を見つけてくれるかもしれない。希望的観測かもしれないけれど。

私は、私の人生しか生きていない。誰しもそうだろうけど、自分は他人の人生を生きることはできない。たとえ望んだとしても。でもそれは、自分が他人の生き方を理解できないということではない。私でしかない私が、私ではない他人のことが分かったり、私ではない他人が私と話が通じたり、何らかの共感が生まれたりすることがあるがなぜなのか、それは私にもわからない。「わかる」とか「わからない」なんて、本当はその差は大きいものではなくて、ゆらゆら揺らめく変動相場みたいなものだと思う。でも、ちょうど「相場を読む」というのが、あらわされている数字だけを追う作業ではなく、数字に表れている何かを読み解く作業であるように、わからないものにじっと耳を澄ませ、わからないことをじっと見続けていれば、いつか自分が何を聞いているのか、何を見ているのかわかることがある。少なくとも、私はそうやってものをわかってきたような気がする。ぞっとするほど少しずつだが。

「わからない」のは他者だけではない。私は他人ではなく、私でしかないと、私は書いた。でも、今私が思っている「私」が「私のすべて」かどうかは、私にもわからない。自分の中には常に自分がまだ知らない自分がいる。その「まだ知らない自分」は、知らないうちはないも同然だし、知った後でもある角度から見れば「異物」としかみなされない場合もある。
でも、それはやっぱり私でもある。ある「私」からみれば「私ではない」ようにみえる私でも、私なのだ。「私」の一部。「私」を構成する一部。これまでの自分が触れたことのない状況に触れて、私がどんな反応をするものやら、見ている自分が私の中にいる。それを恐れるのではなく、楽しめる状況にある私は幸福なのだろう。怖くないわけではない。怖いけど、楽しい。

そういえば、先日、レッスンに来ているある俳優さんが「舞台に立つのが、怖い、と初めて思った」と言っていた。本人は戸惑っていたけれども、私はすごく大事なことだと思った。自分が、その役柄を、演じる、ということが、自分が何をすることなのか、逆に、演じない自分とは何か、ということを正面から考え始めたサインだと思うからだ。ものごとを創ること・・・それがダンスであるにしろ、演劇であるにしろ、文学であるにしろ・・・は、自分の中の他者性に気づくことのような気がする。「気づく」であり「築く」なのかもしれない。この怖さは「鎖国」している人が感じる怖さとは、違う。違うけど、関係性がまるでないほど違うわけではない。例えば俳優だって、自分のキャラとか、当たり役といったものが、自分にとって「天地」なのか「鎖国」なのか、ということに気がついている人もいれば、いない人もいる。気がついて戸惑う勇気を持てる人もいれば、そんなことをちょっと思ってしまった記憶自体を消すことに必死な人もいる。同じ人の中に、どちらの人も同時に住んでいることだって珍しくない。
気づいて、何が築けるか、それはまだわからない。でもそれっていいな、と思っている。

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