えこひいき日記

2008年6月3日のえこひいき日記

2008.06.03

私はよく「ながら」作業をしてしまう。先日もテレビを見ながら作業をしていて、テレビの中から聞こえてきた一言が妙に印象に残った。確か、テレビの中の人は経済アナリストで、インタビュアーの「調べ物ではやはりインターネットを利用されるんですか」みたいな質問に対して答えていた一言だった。「もちろん使いますけれど、本を買うことのほうが多いですね」と言い、「へー、いまどき」みたいな反応をするインタビュアーに対して「複数のプロが関わった書籍のほうが、著者の言いたいことが伝わりやすいように工夫されているように思うので」と答えた一言だった。
「複数のプロが関わるゆえに、オリジナル・メッセージが伝わりやすくなる」
そだよな、と思う。インターネットのようなメディアでは(こういう日記も含めてそうだけれども)、書き手の書いたことがダイレクトに、スピーディーに表現できるよさがある。しかし「書いたこと」が常に本当に書き手が「書きたかったこと」かといえば、実は書き手としても疑問なのである。思っていることを言葉にするのは、難しい。本当にこの表現でいいのか、いつも迷う。下手に言葉が通じてしまうからこそ、いつも考える。ネットのスピーディーさは、書き手の稚拙さやエゴを、書かれたことと同時に、ダイレクトに表出してしまう恐ろしさがあるように思う。まだ考えとしてはプロセスに過ぎなかったり、成熟が足りない言葉でも、リリースできてしまう。それはときに、書き手が書きたいことを読み手に伝える際の邪魔になるような気がする。稚拙さやエゴも含めて、それも書き手の個性なのかもしれない。でもやはり程度というものはあって、度を越えてしまうと読む人にはそこに書いてあることではなくて、悪目立ちした書き手自身の何かしか見えなくなってしまう。
私自身、まがいなりにも原稿とか本とかを出させていただいた経験あるが、編集さんとか校正さんからいただく赤い字の入ったチェックには、助けられることが多い。私が、でもあるが、私の書いた文章が。ときには「なんでここに赤入れんねん!」と思うようなこともあるが、「書き手としてはそうかもしれないけれど読み手としてはこう感じられるから、こうしたほうがいい」という赤の内容をうかがうと、なるほど、そっちのほうがいい、と思うことも少なくない。立派な書き手ならばそういうことも全部ご自分でできちゃうのかもしれないけれど、書きながら読み手の側に回ることは私には難しい。たしか、作家の山田詠美さんは「私は書き終わった直後から自分の文章の読者になれる」とどこかでおっしゃっていたが、私は書き終わった後でも時間を置かないと無理。だから、ひとつの文章を、私とは違う視点から真剣にみてくれる人がいることは、ありがたい。しかもプロとして、著者に負けないテンションで。

・・・ということを、先日「マレビトの会」という演劇集団の『血の婚礼』という舞台を拝見して思った。スペインの作家・ガルスア・ロルカの原作に、松田正隆氏が演出をしていらっしゃる、独特な作品である。私はすごく面白かったのだが、同時に複雑な気分にもなった。たぶん、演出側と俳優側が同じ視点でこの作品に取り組むことは不可能に思えたからだ。
この『血の婚礼』では、俳優が極度に演技らしい演技を制限されている。せりふはあえて棒読み。間とか、抑揚なども、演出から指定されて極限まで奪われている。視線や身振りなどの動作も、ぎりぎりまで抑えられている。そうやって極限まで抑えても、どうしても生まれて、漏れ出てしまうようなものだけは出していい、という感じ。それに加えて役者のせりふは、不意の轟音でかき消されたりもする。それはもちろん、演出上計算されてのことだ。別に役者を軽んじているわけでも嫌がらせをしているわけではない。
でも、そういう条件で舞台に立て、といわれるのが、俳優にとってどんなに不安なことかは想像に難くない。おそらく、俳優として何をしろといわれているのかわからなくなると思うからだ。これではまるで役者が「下手な俳優」のように見えるではないか。いやいや、きっと意味はある。でも、なぜ自分がこの役を演じるのだろう、誰でもよかったんじゃないか、ここの演技は本当にこれでいいのか・・・多分、お稽古から本番の6公演全て、そういう不安感が消えることはなかったのではと思う。私はすごく面白かったのだが、俳優陣にとっては残酷な仕事だったかもしれない。
ところが作品という視点で考えれば、その俳優の不安感や揺れすら、作品には有効なのである。あえて棒読み、棒立ちに近い演技だからこそ、古典的なテキストそのままのせりふに奇妙な力とリアリティが宿る。
そしてきっと、何が「何」で、何がリアルなのか、わからなくなるような不安が観客にも生まれる。
それは、人によっては不快感やばかばかしさでしかないかもしれない。「芝居を見る」ということがその観客にとってどういう行為を意味するのかによるが、もしもそれが「美しく整えられた驚き」を目撃することだったならば・・・例えば「あの女優さん、きれいね」とか「かっこいいわね」とか「衣装が素敵」とか、「何の話かわかんないけど、結局ハッピーエンドよね、これ」とか・・・自分の認識する「日常」以上の何か(例えば「きれいな女優さん」)を期待しつつも自分の予想外の事や価値観が変わるようなことが起こることは最初から拒否しているようなものだとしたら、すごく裏切られた気がすることだろう。それはけして間違った芝居の見方ではない。映画を見に行く時だって、DVDをレンタルする時だって、「ラブストーリーもの」「アクションもの」というふうに「何が起こる話か」というのをある程度観客が見る前から知っていて見る、ということは珍しいことではない。それが自分の予想を裏切らず期待だけを少し超えるような、素敵な起こり方をしてくれることを期待して、観客はそれを見る。起こることは、ある意味、わかってしまっているのだ。
ただ、この作品に関しては、それよりも「何が起こるのかを目撃する」要素が強いような気がした。だから、「起こるはずのこと」を探して舞台を凝視していると、裏切られる。観客は、淡々と、「起こっていること」を見て、感じるしかないのだ。まるで実際の人生でも次の瞬間何が起こるのかを受け止めるしかないように。
こんな残酷なことを、ちゃんと俳優に要求してやる遂げられる松田氏も、やり遂げた俳優陣も、プロだな、すごいな、と思った。多分、演出陣は俳優陣からは散々泣きつかれたと思う。どうすればいいのか言ってくれ、とか、これでいい演技だったらそう言ってくれ、とか、きっと有言・無言のプレッシャーがかかっていたんじゃないかと想像する。でも、俳優を安心させてしまうと、きっとその「安心感」も芝居で出てしまうような気がする。それでは作品としては違う芝居になってしまう。「どうしてほしいか」なんて、演出家にも最初からプランがあるわけではないのかもしれない。「どうしてほしくないか」がわかっているだけで。そのライブな揺れを要求できるのは、基本的に俳優を信頼しているからだと思う。

予想や予定の方に現実を当てはめて「できたよね」にするんではなくて、本当のことに向き合うことは、基本的に残酷なことなのかもしれない。予定や予想の外にあることをも含めて、起こることに向き合う覚悟を決めることかもしれない。

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