えこひいき日記

2008年6月11日のえこひいき日記

2008.06.11

東京である。
用事の合間に、少しだけ時間ができたので六本木になる某ホテルのカフェに行った。窓際の席に一人で座り、眺めるともなく周りを眺める。人々の話し声、テーブルの間を動く従業員のおそろいのシャツの色が何だかさわやかで、朝からのばたばたを少し忘れてほっとした。こんな時間はいい。一人で居るのがとても豊かで愉しくなる。
窓の外のテラス席には初老の男性が座っていて、なぜか小さい黒いウサギをなでていた。もちろん生きているやつである。隣の席の若い女性と談笑しながら、時折ウサギをなでたり、笑いかけたりする。時には女性にもウサギを渡して、女性も優しくなでたり膝に乗せたりしている。でもウサギの定位置はその男性の腕の中のようであった。平日の昼下がり、都心のホテルのカフェで、きっちりスーツを着た上品な初老の男性がウサギをなでている。すごい不思議な光景だった。でも、男性の笑顔は本当に優しくて、何だかとっても善いものをみた気分になった。世の中そんなに捨てたもんじゃないみたいな気分になる。

東京には私用もあった。モーリス・ベジャール・バレエの公演を観にいったのである。関西でも同じプログラムの公演があるんだからそれを観にいけばいいんだけれども(関西では別のプログラムを観るのだ)、小品集の公演は東京で観たくて、わざわざ行くことにした。
東京で観たい理由。それは感傷なのである。たぶん。
私がベジャール作品を最初に見たのはもう20年以上前だ。ジョルジュ・ドンが誰かも知らないくせに「この人の踊りは見ておかなくてはならない」という気がして、観にいったのが最初だった。それ以来、ジョルジュ・ドンが出演する日本での公演はほぼすべて観た。東京のその劇場にも何度行ったことだろう。そういえば、あるとき、東京の公演を一緒に見に行く予定だった友人の都合が急につかなくなり、余ってしまったチケットを持って会場前に立っていたことがあった。チケットを無駄にするにも惜しいし、その公演は当日券が争奪戦になるくらいの人気だったので、当日何方かにお譲りしようと思って、適当な人に声をかけたのであった。京都から観に来たと言うとその人はあきれ、「あなたのような人がいるからチケットがなくなるんです」と笑いながらしかられたことがあったっけ。
もう十数年前にドンが亡くなり、昨年の終わりにベジャールが亡くなった。ひょっとしたらベジャールの公演を観に来るのはこれが最後になるかもしれないな、と思いながらチケットを取った。

公演の幕が開くまで私はまったく気がついていなかったのだが、ベジャール・バレエの公演を見るのはドンが亡くなって以来であった。意識的に遠ざけていたわけではないが、私にとってベジャール作品とドンというダンサーの存在は不可分なくらい密接だったから、自然に興味が薄らいでしまった部分があったような気がする。あるいは、かつてドンの踊った作品をほかのダンサーが踊ってもつい比べてドンの影を追うばかりになってしまいそうで、そういう見方をしたくないな、という気持ちもあったような気がする。
とはいえ、昨年11月にベジャール本人も他界し、会場は否が応でもノスタルジックなムードが漂っていた。今回はタイトルもずばり追悼公演だし、上演作品も代表作を揃え、否が応でもそういうムードなのだ。舞台の上のダンサーの多くはドンを知らないだろう。もちろん、伝説としては知っているだろうが。もともとこのカンパニーのダンサーの出入りは激しい。ドンやベジャールのかつての姿を知らないダンサーがカンパニーの大変を占めていてもそれはなんら不自然なことではない。でも、ベジャール本人亡き後、このバレエ団はどうなっていくのだろうか。ふとそんなことを思ったりした。完全に余計な心配しぃなんだが。

観終わって思ったことは、本当にもうドンはいないし、ベジャールもいないのだ、ということだった。でもそれはさびしいだけの事実でもない。目の前で上演されている作品を見ながら、かつての記憶と微塵も比較しなかったといえば嘘になるが、でも、目の前で上演されている作品は、同じ作品であってもかつて観たそれとは違うものであって、それでいいのだ、と感じたのだ。個人の生命とはまた違う存在として、作品はある。作品は残る。ダンサーが変わり、時代が変わればまた新しい命を得て、作品は生きる。それはかつて観た作品の印象とは異なるものかもしれないけれど、それでいい。それも作品の命のあり方なんだな、と。そしてベジャール作品はやはり素敵なのだった。

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