えこひいき日記

2008年10月26日のえこひいき日記

2008.10.26

怒涛の日々である。

ところで、英国はブリストル大学のDebbie Sharp教授とサウスハンプトン大学のPaul Little教授によって、アレクサンダー・テクニックに関する大規模なリサーチが行われ、論文が発表された。それはアレクサンダー・テクニックの腰痛への適応に関する論文で「アレクサンダー・テクニックは慢性あるいは再発性の腰痛患者にとって長期的便益があるという有力なエビデンスが得られた」と発表されたという。
この論文の概略は、2008年10月9日版の『Medical Tribune』に載っていて、日本語で読める。私は、私のところにレッスンにきている外科関係の方々からその紙面を頂いた。興味のある方はお見せするのでレッスンの時にでもおっしゃってください。
あと、当ホームページの「リンク集」にもあるSTATのサイトから、この論文に関するサマリーが載っています(英語です)。

この概略を読んでいて個人的にウケた個所があった。
「マッサージにも3カ月以上の(痛みを軽減する)効果はあったが、機能に対する影響は1年後には認められなかった。一方AT(アレクサンダー・テクニック)の効果は維持されていたことから、AT講習を受ける長期的便益は、注意や接触によるプラセボ効果によるものではなく、同法を能動的に習得することによるものと推測された」
(ちなみにこのリサーチでは、レッスンの回数を変えたケース(24回受けたケースと6回受けたケース)、従来のマッサージ、従来の物理療法の4つを比較しているのだが、結論としてATは腰痛の長期抑制に効果的と結論を出している)

プラセボ(偽薬)効果。「これは痛み止めだよ」とか言って小麦粉を飲ませても、本人が「痛み止めだ」と信じることで痛みが止まってしまうような「効果」。
なるほどね。確かにATのレッスンは、徐々に正確に習得されていく一方で、時に劇的に人の身体を変える。そのインパクトから「催眠なのでは」「一種の洗脳か?」などと言う人までいるほどである。そうでなくても、長らく痛みで苦しんだ人が接触を伴って身体認識の問題にアプローチする教師に対し、依存的意識を寄せたり、そのように「親切に」接してくれる相手との信頼関係を損なわないために、実際はそうでなくても「治った」「よくなった」などというケースが皆無とも言い難い。
考えてみれば、身体認識や意識がどれほどその人の肉体の状況に影響を与え、時には自らの意識や認識によって機能を著しく低下させることもある、などという考えは、例えば20年くらい前だったら「あやしい」の一言で片づけられていたかもしれない。いわゆる「気のせい」の領域だったかもしれない。今でこそ「ストレス」という概念もある程度定着し、心身相関的な症状が現れることがけしてレアではないことが理解され始めているが、人間の意識だの身体だの神経だのの間には、相関の糸よりも区別の溝の方が深く存在していた時期は近年長いのだ。だから、疑うために疑う、否定するために疑うという連鎖倒産みたいな話ではなく、むしろ「事実に迫るために疑ってみる」態度として、こうした論文に「もしかしたらプラセボかもしれないじゃん」という視点からもリサーチがなされていたことは非常に喜ばしいことだと思う。

ATに限ったことではなく、ある方法によって「思い込み」によって一時的な回復体験をしたことをきっかけに、その体験をもたらした健康法やメソッドに盲目的に傾倒し、却って悪化を促進させるケースだって少なくない。未知なもの、新規のものをみて「ちょっとどうなのかしら」くらい思わない方が危険ともいえる。でも、疑う勇気もなくて、とにかく早く救われたい人たちはたいてい徒党を組もうとする。「自分だけじゃない。みんなもだから」みたいなことを根拠に大丈夫だと思いこもうとするのだ。そして自分たちのような考えを理解できる人間だけが特権的なセンスの持ち主であるかのように考え、半ばカルト化していく団体だって少なくない。あるいは、極端に信じるものがオカルト化していくとかね。困ったり疲れたりしすぎると、人間けっこうむちゃくちゃになるものだ。そんなときには、「エライ人」に言われるがままになるというのは、自己責任がなくて、楽でいい、と感じることがあるだろう。そのようにして、事態は何も変わっていないのに「救われた」という感覚を持つのは一種のプラセボ効果、自己催眠、自己暗示。でもねー、それしきの狭い自己を放棄したくらいで「エライ人」やら「正しいこと」に救ってもらえると考えるのは、甘い。そんな、本人も捨てやすい自己を、ほんとうは人も神は尊ばない。
だが、「気のせいとは呼ばれない、確かなもの」「科学的に(?)実証されたもの」だけが「正しい」のかというと、そうとも限らない。本当に「ほんとうのこと」に興味を持っている人たちは、そのことをよく知っている。でも自分で考えたくない人たちにとってはそれはどうでもいいことらしい。「医学的」「科学的」という言葉は、ある種の権威として、虎の威を駆る人たちの「虎」にされてきたようなところがある。某健康系テレビ番組が、研究者が言ってもいないコメントを言ったかのように“演出”して番組を制作していたことが判明し大問題になって制作打ち切りになったことを思い出すまでもなく、そういうパワーやブランド、あるいはメソッドの「使われ方」は気を許せば常態化してしまう。そういうしょーもないことで・・・本物の虎ではなく、その人たちの「虎」をみて・・・「医療は信じられない」「科学なんて冷たいもんだ」「○○メソッドなんてダメだ」と思う人が生まれてきたりもする。そしてセンセーションでこのもやもやを吹き飛ばしてくれる「それ以外の、インパクトあるもの」に走る。実にネガティブなスパイラル。でも、それを商売にしている人も現にいる。「ほんとうのこと」を見極めるのは、簡単ではない。

最近私は「ほんとうのこと」について考えている。どうすれば「ほんとうのこと」が理解できたり、書けたりするのだろうか、と。それは、いわゆるドキュメントやノンフィクションであれば「ほんとう」で、ノンフィクションやファンタジーが「つくりごと」とするような、単純な話ではない。だって、一言一句間違わずに相手の言葉を全部書きとったところで、それが相手の「ほんとうにその人が言ったこと」を写したことになるとは限らない。本人がいくら「こうした」「しいていない」と思っていても、実際には本人が認識していない行動をばっちりしていたりもする。しかしそれはけして意図的に嘘を言っているわけではない。そんな場面を仕事では山ほど見てきているし、子供の頃から私はそういうことに敏感だった。多分。
10歳くらいの時、誰かが「当然」という顔つきで語る「常識」をただコピーするだけでは、私はほんとうには何も分からず自分では何もしないまま死ぬかもしれないと、初めて思った。その「常識」が間違っていたからではなく、結果的に「正しい」ものであればある程、怖かった。「正しい」のに、誰もその意味を分かってやっていない。空箱のような「正しさ」があちらこちらに転がっている。それに気付かないばかりか、誰かのコピーで口から音を発したり、手足を動かしているだけでも、何かできているようにみえてしまう。その出来の良いフェイクを誰も突っ込まない。そのことが死ぬほど怖かった。
だから私は「リアリティ」にこだわっているんだと思う。「ほんとうのこと」につながるものとして。ある人が抱く「リアリティ」が本人にとって「ほんとうのこと」とは限らない。その「リアリティ」が「リアルな妄想」「強い記憶の断片」でしかないこともある。それでも、その「妄想」や「断片」の中に「ほんとう」につながるパズルが転がっていることがある。私にパズルを拾う力があるか。組み立てる力はあるか。最近、頻繁に自分に問いかける。この先の道を歩けるのか、自分で自分に問う。「NOとはいわれていない」。今のところ、それが私の答え。

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