えこひいき日記

2009年2月8日のえこひいき日記

2009.02.08

節分も過ぎ、立春も過ぎて、寒い中にも春の気配である。光が違うんですよね。空の色なども。

ところで、街中暮らしをしていると、そうでない暮らしよりも便利なことと便利ではないことがある。どちらかといえば「便利なこと」の方が多いのだが、たまに便利ではないこともある。例えば、近所に普通のスーパーマーケットが少ない。デパ地下や高級食材を扱うお店は近くにあるのだが、案外「普通のスーパーマーケット」がないのだ。まあ、錦市場が近いからいいのだけれど(以前、錦市場の中にあった「普通のスーパー」は数年前になくなってしまった)。あと、レンタルビデオ屋さん。これまた数年前にはそんなに遠くない所に1件あったのだが、撤退してしまった。普通のスーパーや、レンタルビデオ店は住宅が多い地域にはある。でも、街中というのは「家から出てお買い物をしに来る場所」であることが多く、居住地域ではない、というのがマーケティングの人たちの判断なのだろう。
街中暮らしではあるが、私の生活は宅配やネット購買のかなり依存している。街中に住んでいても、お店があいている時間に行かないと、当然ながらお買い物はできない。かなりの確率で事務所缶詰めな日々の私は、そんなわけで、本も食料もネットで注文して宅配さんに持ってきてもらったりする。ときどき、宅配の方が届けてくれなかったら街中なれど飢え死にするぞ!(おおげさ)と思うことがある。恐るべき私のライフライン。外にはみ出た私の血管。道徳的観点からではなく、ただの事実として、私は一人では生きていけない。一人では、私は「私」であることすらできない。知らないうちに、「外」は私の「身体」の一部になっていて、その運営のされ方も知らないうちに変化を遂げている。まるで人知れず代謝していく細胞のように、あるいは気がつかないうちに病みをためていく患部のように。

なければないで何とかなっていたのだが、ちょっと資料としてみたい作品を探したのがきっかけで、DVDのネットレンタルに手を染めてしまった。さらに高まるネット通販依存度。

さて、そのネットレンタルで『パフューム ある人殺しの物語』というのを観た。2年くらい前に話題になった作品である。すごく面白くて、ついメイキングがついたDVDを購入し、原作本も読んだ。20年前に発表されてヒットしたというこの原作を、私は知らなかった。物語そのものもとても魅力的だが、それに加えてこの世界を映画にするというのがどんなに大変で、それでいて、どんなに諦めきれない欲望だったかを想像すると、なんというか、ただただすごいと思う。うーん、やっぱりやるだけのことをやると作品の厚みが違う。それは必ず映像に反映されるものだと思う。どのシーンというような明確で固定的なものではなが、まさしく漂う「かおり」のようなものとして、ちゃんと「世界」を支える。

『パフューム』を見ながら、そうしてこの物語はこんなに魅力的なんだろうか、と考える。ある角度から見れば、グロテスクと言えばグロテスク、インモラルと言えばインモラルな物語だが、しかしそのような背徳的な部分が魅力なのかというと、そうではない。この物語が「グロテスク」「インモラル」に見える部分があるとすれば、それは普段私たちの意識の下に存在するものを描いているからだ。存在はしているが、表層には出さない、何か。もしもそれを「暴露」することに力点が置かれた作品であれば、その作品は「普通行わない表現を行った勇気(?)」を売りにして、グロければグロいほど偉い(?)みたいな評価に落ち着くのかもしれない。しかし原作者も、この映画の監督も、そんなことに興味があるようには見受けられないし、私もそうは思わない。
「物語」の魅力とは何か。
それは、ほんとうのことを描いていること、ではないかと思う。
超シンプルな答えになってしまうけれども。

だが、答えはシンプルではあるが、単純ではない。「ほんとうのこと」とは何か、を表現しようとすると、それはけして簡単ではないからだ。『パフューム』の主人公・グルヌイユにおいて「ほんとうのこと」とは全てのものが持つ「におい」である。正確には、「におい」をとおして感じられる「こと」や「もの」。「世界」。彼は石やガラスにさえ固有の「におい」を感じる人間で、普通の人間が匂いを「感じやすい」においだけを「におう」と表現するのとは違うものの感じ方をしている。また、「よいにおい」と「わるいにおい」の区別もしないのでどちらかだけを感じようとしたり、どちらかの存在を感じないようにしようとしたりしない。もちろん彼にとっての「よいにおい」というのはあり、その美を何とか固定する方法はないのかと彼なりに真剣に「研究」する。その「研究」には妥協も手抜きもない。だから人を殺してしまったりもするのだが、そこには普通の(?)殺人者が抱くような感情は存在しない。まるで植物学者か薬物学者が貴重な植物を求めて遠くの国境を越えたり山に分け入ったりするようなテンションで、人を手に入れようとする。正確には人の「におい」を。それ自体は儚くも移ろい行く「におい」というものを最高の状態で「固定」しようと奔走する。そして、成功してしまう・・・。このあたりは技術的に現実的に可能なことなのかはわからないのだが、そんなことは「物語」の「ほんとう」にとってはどうでもよい。ともあれ、彼は成功して「しまう」のだ。
その結果、彼にとっての「ほんとう」を固定化したゆえに訪れる悲劇の訪れをも受け入れることになる。固定化に成功してしまったことによって訪れた結果は、彼が望んだ結果とは異なっていたように思う。だから「悲劇」と書いたのだが、やはり彼は嘆き悲しんだり、「失敗」を呪ったり、この結果を別のことに転用して「別の成果」をあげようとすることなどに、エネルギーを費やさない。そういう「生き方」を選択しない、というか、そういう選択肢を設けない人間なのかもしれない。それでどうなったかは、小説かDVDをご覧ください。

私は昨年から「物語」というものについて考え続けている。それは「からだの使い方」などというものを教える仕事をしている私とはかけ離れたことのように思えるかもしれないが、私の中ではそうではない。その人物が癖や習慣にしている「からだの使い方」やその「からだの使い方」を選び取るもとになっている「思考」は、ある種の「シナリオ」に思える。この状態になったらこうするのが「あたりまえ」、このようなものに対してはこう対処するのが「あたりまえ」という、既存のシナリオが「癖」である。「こうでなくては」という「思い込み」や「予想や予定に従った行動」と言い換えてもいいかもしれない。しかも「シナリオ」にはまっている本人がシナリオ(自分が思うともなく予想してしまっていること)の存在に気がついていなかったりする。
わかっていてシナリオをやり切れれば、人はシナリオに縛られない。ちょうど原稿通りのスピーチや振り付けに忠実な踊りが、いわゆる「型どおり」に終わるとは限らず、新鮮に人の心を打つように。だが、できていなければ、ただの「型どおり」。
では「できる」とはどういうことか。
それは前記の「ほんとう」に等しいものである。それが何かを書くのは、これまた難しいんだけれども。

その人個人の既存の「シナリオ」はその人を安定して「その人らしく」いさせ続けるものでもあるが、同時にその人の可能性をある枠に限定し続けるものである。自分を取り巻く状況やそれに対応する自己は、どんなに平和そうに見えても常に移ろっている。既存のシナリオと現状とが噛み合わなくなったときに、当然のことながらいつもとは異なる反応が起こる。変化自体は善でも悪でもない。あえて言うならばその状況における必然である。また、既存のシナリオが正しいもので、変化せざるを得なくなったことが悪とも限らない。それでも人は戸惑う。

「自分の既存のシナリオからはずれる」ということが起こったとき、どう「する」のか。それは自分にとってチャンスか、破綻か。

小説などの「物語」においても、登場人物たちは必ず自分の「安定した既存のシナリオ」以外の事態に遭遇して、戸惑う。戸惑いながらも何とかそれに向きあい、自分なりの答えを出していく。なにも名声や地位を得るというような、世間的な「成功」だけが「答え」ではない。大事なのは、それがその人なりの「答え」であるということ。それが読む者にも感じられること。つまり、その「物語」を恐れずに生きること。たとえ知っている「シナリオ」通りじゃなくても、恐れずに、生で反応してみせること。その生きざまこそが「物語」で、魅力なのである。
魅力的な「物語」(小説や、はやっている漫画や)に触れるたびに感じる。それに心ふるえる自分というのは、自分の中に眠っているもう一人の自分の覚醒を夢見ている自分だ、と。今ここにある自分だけが「自分」じゃない、と私は知っている。だからといって自分以外の誰かになりたいわけじゃない。今の自分にすごく不満があるとかじゃない。ただ、今が今のままでは、自分は今のままの自分だ。今を壊したいわけじゃない。でも、今のままでは嫌だ。私はいつも次の「道(ルート)」を探している。自分の中の自分を掘り出してくるやり方を。自分の中にある形のないものに形を与えるやり方を。同時に、望みながら、恐れている。自分でそれを知っている。

ひとは皆、自分の中に隠れている力の出現を望みながらも恐れているのかもしれない。だから、魅力的な「物語」に救われるんだと思う。その試練に。「試練に救われる」ってへんな日本語だけど、でも、そういう「普通じゃない」状況でしか出てくる機会のない内なる自分のパワー、素直な心の出現ってやつに、「今の自分」がしっかりレスキューされちゃうもんなんだと思う。

実生活で出会う「試練」は、小説のような、わかりやすい「事件」ではないことの方が多い。急に異界から誰かがやってきたり、秘密の必殺アイテムを授けられたり、ばしばし修行をしたり、旅に出たり、熱烈な恋に落ちるなどという、話ではない。でも、実はそれと同じくらいドラマティックなことかもしれない。実生活における試練とは、例えば、「いつも」とか「つい」に負けないこと。流されないこと。あ、でも、逆らえってことではないのです。「逆らう」なんてただの反動ですもの。そんなのはまだまだ「いつも」にとらわれている圏内。そこじゃなく、たとえ目に見えて違ったことではなく、昨日と同じことをしているように見えたとしても、そのやり方を「いつも」だからするんじゃなくて「必然」で選び取ること。それをちゃんと自覚すること。
さてさて、がんばらないと。

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