えこひいき日記

2009年2月23日のえこひいき日記

2009.02.23

米国のアカデミー賞の短編アニメ賞を『つみきのいえ』、外国映画部門を『おくりびと』が受賞。なんだかすごく嬉しく思う。ちょっと涙ぐんでしまったくらい。「日本の映画が受賞したから」というのもあるけれども、それよりも、こういうやさしい映画、美しい映画が評価されて嬉しい、という気持ちか強い。やさしくて美しいものは、必ずしもインパクトが大きい作品とは限らない。バジェット的なことをいっても、けして巨大予算を組んで製作されるような大々的な映画ではない。「売れる作品だから作りましょう」ではなく、作り手の思いやこだわりが製作作業を牽引してきたような作品である。その思いやこだわりが偏った一人よがりのものでは困るのだけれども、とても濃い個人の思いが普遍的な何かを貫くことがあって、そういうものがちゃんと評価されるのはシンプルに嬉しい。アメリカも捨てたもんじゃないやん(暴言?)と思わせる。

『おくりびと』は、この世を去り行く人を送る「納棺師」というお仕事についた人を軸に描かれた作品である。そこには、日ごろ忘れているようでいてうっすらと張り付いている概念・・・死は生の敵なのか、汚らわしいものなのか・・・や、必ず死ぬことがわかっている私たちの「生」にとって「死」とは本当は何なのか、「死」に何を望むのか、「死」によって切り離されるものと「死」によっても切り離されないもの、むしろ、「死」によってつながる関係性、というものが散りばめられて描かれているような気がする。
お葬式というものを、ただの形式、無駄なもの、と思うきらいもある。私は、「生」と「死」の狭間をどのようにまたぎこすか、あるいはつなぐが、というのは形式以上に重要な部分は在ると思っている。どのような死を迎えるかは、その人がどう生きていたか、ということでもあると思う。死者にとっても、生きてこの世に残るものにとっても。生きている人間にとって死がリアルではなく、大切にも思えないのであれば、葬儀というものがただのお金のかかる堅苦しい(型苦しい)儀式にしか思えなくても仕方がないと思う。それは多分、葬儀だけの話ではなく、あらゆる形式を有するものに共通する事柄でもあろう。

私は幸いに、よいお葬式に参列させていただいた記憶が多い。「よいお葬式」というのは、葬儀を取り仕切る生者の側が、ちゃんと死者を旅立たせてあげられる気持ちになられたお式のことである。もちろん大切な人を送るのだから、惜別の思いが渦巻くのは致し方ない。それでも、その思いにしがみつくことなく、笑顔で、とまではいかなくても、「ありがとうございました。いってらっしゃい。私たちもこちらでがんばります」と心から言えるのは尊いことだと思う。死者にも生者にも力になる気持ちだと思う。

昨年のことになるが、私の大事な友人の父上が亡くなられた。父上は、たいへんダンディで素敵な方であった。背が高く、すらりとして、いつもおしゃれだった。長く病を得られていたのだが、晩年は「衰えた姿を見せたくないから」とお見舞いにも応じてくださらなかったくらい、美意識と心遣いの方であった。自分の容姿を気にされてそうおっしゃっていたわけではなく、見舞う人の変に気を使わせることを気にされていたのだと思う。私が父上にお会いしたのは数えるほどだったが、みんなが楽しんで笑っているのがお好きな方だったと思う。
友人は、現在アメリカの大学で教鞭をとっている。2年ほど前のある日、突然友人から国際電話が入った。「相談したいことがある」と。相談内容は、父上のことだった。正確にいうと、そんなに遠くない将来に訪れるであろう父上の葬儀についてであった。父上の葬儀の導師(お葬式でお経などをあげるお坊さん)を選びたい、というのが友人の相談内容だった。父上を送るにあたって、葬儀を単なる形式にする気はない、導師にはそれなりの人を選びたい、と。もろもろの交渉の末、ご縁があって、私の友人の僧侶に白羽の矢が立った。このご縁には奇しきものがあるのだが、詳しく書いているとなかなか大変になるので割愛する。
いつもそうなのだが、「その日」は突然やってきた。友人から電話をもらってから半年以上経過していたのだが、お知らせをいただいたとき、私の心の中はなぜか凪いだ海のように静かだった。悲しくないわけではないが、悲しいわけじゃない。でもどの感情においても、エキサイトしていない。ただ、身体だけが少しピリッとしている。でも、お通夜に出かけるときに靴とカバンが壊れたのには驚いた。あわててデパートで靴を調達し、お通夜の席に向かったのを覚えている。
お通夜では、出迎えてくださった母上の温かい笑顔が印象的だった。お通夜というしんみりしがちな場所に呼ばれたというよりも、親しい人だけの食事会に呼んでくださったかのような笑顔だった。一瞬「この度は、ご愁傷様でございます」などという決まり言葉が陳腐すぎて出てこないくらいだった。「愁傷」なんかじゃない。ご家族は、もう長い長い間、生と死を抱きしめて暮らしてこられたのだと思う。過度の悲観でもなく、楽観でもなく。ただそれぞれにちゃんと生きていくことを正面から考えて。
通夜の席には当然のことながらご親族だけで、血縁でないのは僧侶と私くらいであったが、なぜか以前から知っていた間柄のように受け入れていただき、楽しくお通夜のお寿司を食べた。そしてそのままお酒に。大変お酒に強い一族らしく、とんでもなく酒が進んでいく上に、とにかく手際が良い。おつまみとか、氷とか、小皿とか、誰かに言われなくても誰かがさっと立って調達してきたり、すばらしいのだ。そういう中にいるうちに、なんだかいろんなことがわかるような気がしてきた。わかる、というより、納得、というか。それは一言で言えば「縁」とか「絆」みたいなことになるのだと思うのだが、どうして友人が導師をわざわざ選ぼうと思ったのか、どうして親族の人が彼の提案を受け入れたのか、たまにしか会えない友人だがとても近いような気持ちになるのも何故なのか・・・とか、そういう説明しにくいことが全部「自然なこと」だと思えてくるのだ。
いろいろなお話をしているうちに、深夜になって友人がアメリカから帰ってきた。どんな顔をして何をいうのだろ、私、などと思っていたが、実際には笑顔でいつものような口調で話していた。不思議だ。でもとても自然なことのような気もする。この不思議で和やかなお通夜の光景は、多分今後も忘れないと思う。大げさな言い方かもしれないが、生きていく勇気と死んでいく勇気を教えてもらった気がする。
「やつれたでしょう」とご親族がおっしゃった棺の中の父上のお顔は、なんのなんの、とても美男子なのだった。そう申し上げると、「本当はもっとかっこいいのです」と母上。はい、もうなにも返す言葉がございません。案の定(?)、父上は最後まで女性の看護師さんにもモテモテで、最期のときには皆さんが別途を囲んで泣いておられたという。そんな逸話も、涙ではなくちょっと笑顔で話せてしまう。

全然関係ないのだが、最近の私はめっぽうお酒に強くなった(あくまで「当社比」だが)。飲んで赤くなるとか、眠くなるとかは以前のままなのだが、酒量は増えた(あくまで「当社比」)。先日昨年の日記を読み返してみて思ったのだが、昨年の春くらいに私の体調は最悪で、食べても吐いてしまい、3日で2食くらいしか胃に納まってくれない日々が2か月以上続いていた。よくあんな状況で仕事だけは普通に出来たもんだと思う。そういえば、あのお通夜はそんな日々の直後だった。お通夜の席ではがんがんウイスキーを飲んでいたのに、全然吐かなかったし、酔わなかった。だから何だ、という話ではないのだが。

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