えこひいき日記

2009年3月4日のえこひいき日記

2009.03.04

先日、クライアントさんと『浦島太郎』の話になってしまった。もちろんレッスンが始まっていきなりこんな話になったわけではない。ある流れがあってこういう話になったのだが、その次第はあとから書く。
クライアントさんは「なぜ乙姫様は浦島太郎に玉手箱を渡したのか?」が疑問らしいのだ。「開けてはいけないものをなぜわざわざ渡したのか。あれを渡さなければ浦島は竜宮城に帰れたのではないか」というご意見なのである。
別のクライアントさんはこんなことを言った。「浦島太郎が老人になってしまったのは、乙姫様の言いつけを守らなかった罰なのだと思っていた」と。

だが、私の意見は違う。玉手箱は必要なのだ。開けてはならない箱。それは一見無用のもののように思えるかもしれない。なぜなら「開ける」ということこそ「行為」で、「開けない」ということは「行為」ではないかのように思ってしまいがちだからである。しかしそれは錯覚なのである。「開けない」ということもまた「行為」なのだ。でも「開けない」ということを「開ける」と同等に自身の「行為」の選択肢に入れなかったので、浦島太郎は「なにかしよう」と思った時に「開ける」ことしか思いつけなかったように思う。残念、浦島太郎。
玉手箱とは何か。それは、竜宮と里の「境界」ではないか、と私は思う。玉手箱は箱、と書かれているので「境界」と言われてもぴんとこないかもしれないが、私にはこれが「竜宮」と「里」を「つなぐ」あるいは「隔てる」何かで、それを持たされた浦島にとっては二つの国を行き来するための「パスポート」みたいなものだったような気がするのだ。しかも人間の世界の紙のパスポートと違って(いや、あれだってうっかり異国で紛失したりすると「自分はどこの誰か」を証明するために、えらいことになるのだが)、浦島にとっては「竜宮」という異界での時間や記憶までパッキングできる、実にマジカルなフォルダなのだ。いや、一旦竜宮に行ってしまった浦島には、里こそもはや「異界」なのかもしれない。
里がもはや「異界」に思え、異界が今や恋しい「里」に思える。でも里を「里」と思う心も嘘ではない・・・それで、浦島は本当はどうしたかったのだろうか。

「なぜ浦島太郎は玉手箱を開けてしまったのでしょう。その行為の意味するところは何なのでしょうね」とクライアントさん。
正直言って、私にもわからない。
私にとってもっとも疑問なのは「浦島太郎は玉手箱を開けたのか、それとも、開けてしまった、のか」である。
私には、浦島太郎が自分の意思で玉手箱を開けたのかが疑問でならない。パニくっただけじゃないのか、と思えてならないのだ。以前にもこの「日記」に書いたことだが、人は「何々をしてはいけません」といわれると、しばしばその内容よりも「禁じられている」という意識に心を縛られてしまう。箱を開けないでいることが、物理的に難しい行為であるとは思えない。だいたい、浦島太郎は「玉手箱」が「何」であるかもわかっていなかったし、ましてや「開ける」という行為が何を意味するかもわかってはいなかった。大事なことなのか、くだらないことなのかもわかっていない。だから彼は「玉手箱」に反応したわけではなく、ただ乙姫の「開けるな」の言葉に心を縛られてしまったのではないか。懐かしい人たちがいるはずの里に戻ってきたら、そこは見知らぬ人たちばかり。パニックに陥った浦島は、自分がそれがしたいのかもわからないままに、ただ唯一自分の「知っているもの」になってしまった玉手箱を、すがるような気持ちで開けてしまったのではないだろうか。

仮に、浦島太郎が明確な意思の元に玉手箱を開けたとするなら、どういう解釈が可能か。彼は「乙姫」を「信じない」ことを選んだのかもしれない。「乙姫」。それは「乙姫」は浦島の中の「別の自分」である。もちろん、メタファーなんだが。
例えば、会社では自分はこんな人物だが、趣味ではじけるときにはこんな自分になる、ということはないだろうか。その自分は、同じ自分でありながら、違う自分である。そしてどちらかだけが本当の自分で、どちらかが嘘の自分というわけではない。会社での自分を趣味で出したらなんだか不自然だし、趣味の自分を会社で出してもいま一つしっくりこないかもしれない。それぞれの自分は、それぞれの「その場」だからこそ、そうありえる自分なのである。趣味に思う存分興じる自分がいるから、仕事もがんばれる、ということがある。そういうときには自分の中の「異なり」は問題視されない。むしろ程よいバランス関係でそれぞれの自分を支えあう。
しかし、そういう関係性を理解していなかったり、自分が「どちらかだけ」に傾いてバランスを崩したときに、自分の中の「異なり(多様性、別の眠れる可能性)」は「トラブル」に感じられることがある。仕事が忙しすぎてイライラしているとき、大好きなはずのものや、友人や家族の存在がわずらわしく思えることはないだろうか。親しい人からの「休めないの?」という労わりの言葉が、自分を非難しているような、邪魔をしようとしていような言葉に聞こえてしまうことはないだろうか。友人や家族が「悪い」わけではない。それでも彼らが「邪魔者」や「敵」に見えてしまうことはないだろうか。それは「友人」「家族」「恋人」という形をとった、自分の中の自分でもある。「玉手箱」の中身はそういうものでもあるのではないか。
そんなふうに、バランスを取りそこなってパニックに陥った心には、大切で本当なものほど、自分にとって「触れたくないもの」「恐ろしいもの」「よくないもの」に見えることがある。「玉手箱」を手に里の浜辺に帰ってきた浦島の戸惑う心には、自分の中の「乙姫」や「竜宮」が「悪」に思えたのではないだろうか。里の光景を見てショックでいっぱいいっぱいになってしまった浦島には、竜宮での「充実感」や「幸福」もむしろ「あやしいもの」「信じがたいもの」に思えたのではないか。自分が今受けているショックもみんな彼女による「悪意」や「不幸」なのではないか・・・そんなふうに思ってしまったのかもしれない。だからその「不幸」、苦しさから醒めようとして「玉手箱」を開けてしまったのではないか。信頼ではなく、不信感から。

そうするとやっぱり浦島が心から「玉手箱を開ける」という行動を主体的に選んだのかどうか、疑問が残ってしまう。やっぱりパニック系だったのかもしれない。最後の最後で自分の中の自分を信頼できなかった、残念な人。

乙姫が「開けてはならない玉手箱」を浦島に渡したのは、「禁を守れるか」を試すためではない。「あなたは何を大切にして生きるのか」を問いかけただけのような気がする。困らせるためではない。大事なことだから、覚えていて欲しかったのだと思う。人はパニックになると大事なものを疑う。それも、一番大切なものを。その罠にはまって欲しくなかったから、つい言ってしまったような気がする。「開けないで」と。

でも、浦島ばかりがうっかり者というわけではない。乙姫もまたミスを犯したような気がしている。
どうして乙姫は「開けないで」と言ってしまったのか。「持っていて」とは言わなかったのか。なぜ自らの「不安」を口にして、「希望」を言葉にしなかったのか。彼を助けたいなら、なぜ最後に彼を信頼できなかったのか。
例えば、自分の生徒や子供に「よかれ」と思って「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」と予め「禁じる」ことを言ってしまうことはないだろうか。それが、まだ何も経験しないうちから相手の心と可能性を縛る行為になっていることに気がつかないで。自分自身でも、「どうしたいのか」よりも「どうなりたくないか」にばかり心を砕いていることはないだろうか。幸福になる勇気を持つよりも、不幸になることを恐れることにエネルギーを注ぎすぎてはいないだろうか。新しい携帯電話を選ぶときも、夕食に何を食べたいか考えるときも、「それをしたいのか」「何が欲しいのか」ではなく「どうしなくちゃいけないのか」「どうしておけばいいのか」と、自分への問いかけ方を誤ることはないだろうか。そんなとき、あなたに目は「希望」を見ていない。「希望」を見ているような気分のまま実は「不幸」に見入っているのだ。

『浦島太郎』は御伽噺である。だが、十分に現代を生きる私たちの物語でもある。「浦島」は、怪我でお稽古を離れているあなたの物語かもしれない。うつで会社を離れているあなたの物語かもしれない。新しい環境や場所、仕事やトレーニング方法、新しい振り付けや楽曲、脚本、人間関係に戸惑うあなたは、玉手箱を抱えて浜辺にたたずむ「浦島」なのかもしれない。それは、疑わずにある現実を生きてきたあなたが、ふと自分に疑問を持ってしまったときの、リアルな物語なのである。メタファーを理解すれば。
メタファーを理解することは、お話の意味を理解することである。それは「あらすじが言える」とか「結末を知っている」というのとは意味が違う。「あらすじや結末を知っている」は「わかっている」「理解している」ということではない。時々勘違いしている人に出会うけれども。

ある物語の中に自分の気持ちや生きている姿勢を見出すことは、現実の世界で他人の話を理解することに通ずる。それは違う価値観で同じものを見ることが出来る、ということである。それを通して自分の「中」が見える。自分の意思が見えてくる。
私の手の中にも「玉手箱」がある。自分が今いる世界が絶望的に思えたとき、自分の中に迷いが生じたとき、自分の手の中の「玉手箱」の存在が気になったりする。時にそれがひどく重く感じられ、時にそれがたまらなく懐かしく思える。意味もなく箱を開けてしまいたい衝動に駆られることもある。でも、しない。しないのは、不可能だからではない。たとえ「できる」ことであっても、どこでもかしこでもそれをすればいいというものではない、と知っているからである。不安に駆られると、自分がとんでもなく無能に思えて、その感情からしなくてもよいことをしなくてもいい場所でやってしまいがちである。自分自身に「何か、できること」を証明してみせなければいたたまれないほど、自分を信じられなくなっているからだ。それはおバカなことなのである。
「やっちまわない」知恵と勇気、あるいは冷静さ。「箱」の中に私の「信頼」は入っているのか、何を見て、どこに立っているのか・・・私は時々自分に確かめてみる。

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