えこひいき日記

2009年3月11日のえこひいき日記

2009.03.11

テクニックは、何かを隠すためものだろうか、それとも現すためのものだろうか。
こういう話、レッスンの中でも何度もするし、自分の中でも何度となく考えてきた。それでも、それでも、つきない話なのである。なぜなら、それは「テクニック」そのものの問題ではなく、ユーザーの問題だからだ。
私は仕事柄、たくさんのダンサーやミュージシャンをみる。そうした職業(?)の人でなくても、身体や健康に高い関心をもった人たちがたくさんレッスンにきてくださる。踊るために、演奏するために、高い技術を得たい。よりよく生きるために、健康でいたい、よい姿勢を獲得したい・・・それ自体には何の疑問も罪も感じない。素晴らしい心がけだと思う。でも、ときどき疑問になることがある。なんで、踊るの?なんで、奏でるの?なんで学ぶの?貴方にとってダンスって何?音楽って何?生きてるって何?その芳しい言葉の、あなたにとっての本当の意味は何?
奇妙なことなのだが、踊れば踊られるほど、奏でれば奏でられるほど、語られれば語られるほど、「その人」がよく見えなくなることがある。目の前で繰り広げられている熱演に反して、何かが遠ざかる。「熱演」が、まるで忍者が使う煙幕のように思える。あるいは、食堂の前に置かれた蝋でできたサンプルを見てメニューを注文したら、そのサンプルそのものが出てきたみたいな感じ、というか。「こっちの方が良く出来ているんで」とか言われて。
何かを隠しているような気がするのだ。いや、隠さなきゃ「よい」パフォーマンス(表現)にならないと思いこんでいる、というか。「何か」とは何か。たぶん、「その人」と呼ばれるものなのだと思う。「個性」とか。「本心」とか。「能力」とか。

そうはいうものの、「個性」を「隠す」とか「現す」って、どういうことだろうと思う。人は、その人がその人である時点で、すでに個性的ともいえる。DNAレベルで考えるなら、人はだれしも本当にその人でしかなく、ほかの人ではありえない。
にもかかわらず、「個性」なるものの出現に技術的なスキルは不可欠なのである。ハイ・テクニックである必要性は必ずしもないにせよ、全くのノー・テクニックでは何もアウトプットできない。例えばこうして私が書いていることは、たぶん、文字に書かなくても私の中に存在するものだが、文字が書けるからこそ自分の中でも整理され、表せる。私が黙って部屋の中で電気仕掛けの箱(パソコンね)を前に座っていたところで、誰も私の思考を読んではくれない。読めたとしても、何が見えているのか、わけがわからないかもしれない。言語という秩序に則って提示されるものだからこそ、「私が考えているコト」はなにがしかの意味を成していることが理解され、誰かに「読まれるモノ」になりえるんだと思う。
それに、多くの人がその時点で「私の個性」と思っているものは、実に限定的な個人の能力の表出にすぎない。無意識にしろ、意識的にしろ、「今の個性」はあるやり方に則って表出されたものである。「癖」とか「持ち味」と呼ばれる「個性」がそれである。それはその人の全体的な存在や能力から考えたら、実は限定的な表出なのである。「その個性(やり方)」のままでも出来ることはあるが、出来ないこともそれ以上に多い。だから、何か習い事を始めた時に、「型」や「課題」が与えられる。
それは一見「個性の否定」「画一的な価値観の植え付け」のように感じられるかもしれないが、本質的にはそうではない(ただし、教え手が「型」や「基礎」の本質的な意味を誤解していて、文字通り「型にはめる」かたちでしか生徒を教えられないこともある。残念だけれども)。その課題にてこずるということは、「今の個性」のままでは越えられない「何か」の存在が示されているだけなのだ。その経験を通して「あれ、今まではどうしていたんだっけ?」ということに自覚を持ち、それまでの「持ち味」とともにそれ以外のやり方に目覚めていく・・・それが習得であり、学習の意味である。そうでなければ、芸事における「個性」は、「生まれ持った才能」なるものに過度に依存した考え方に傾き、「その才能をもったものしかする価値がないこと」「それができる人間がすなわちその才能を持って生まれたもの」と短絡的に規定されるか、さもなくば、「今の個性」を独善的に観客に押し付ける「手前勝手な芸」の披露にとどまって終わってしまう。
しかし(だから?)、こうも言える。文字であらわされたものは、すでにその形式に規定されている。よく「言葉に出来ない」というが、人の心情や思考がすべて言語化可能なわけではない。文字には文字の得意な表現形式があり、音楽には音楽の、ダンスにはダンスの、「それだからこそ言えるコト」がある。もちろん絵画にも、料理にも、インテリアデザインにも、歩き方や、姿勢にも、ある。「それ」で表わしえるものがあると同時に、「それだけ」で全てを表せるわけではないし、そこで表わされたものが存在するもの全てというわけでもない。存在に対して、技術は常に部分の問題に過ぎないのだ。
だから本質をつかもうとするならば、目の前のもの(表現形式)に集中すると同時に、それに対する固執から自分の意識を開放しなくてはならない。実に矛盾した表現になるのだが(特に「言葉」で表現すると)。そして「それ」の実践者たる表現者は、こうしたことを認識しながら自分の「身動き」に責任を持たなくてはならない。だって舞台の上ではその人の身動きのすべてが「表現」とみなされるのだから。
たーいへん。だから素晴らしいんだけど、表現者って。
だからクリエイティヴな人って、好きなんだけどね、わたし。

とはいえ、その「たかが部分」的な問題に過ぎない技術を習得するにも、かなりの努力と時間を要したりする。ダンスや音楽に限らず、何かを真剣にやったことのある人ならおわかりだろう。技術を取得すること、ともあれそれが「できる」ようになること自体、たいへんなのだ。
にもかかわらず、である。どんなに大変でも、そこはゴールじゃない。特に芸事において。たぶん私はすごく厳しいことを言っている。でも嘘は言っていない。技術は、手段なのだ。どんなに大変でも、それが全部じゃない。たかが手段だ。それに溺れることは本来の意味において努力ではない。努力のまねごとである。

お稽古するって、練習するって、努力するって、今何をどうすることなのか、クライアントを前に私は毎日毎日考えている。その人のせっかくの気持ちが、変な迷い道にはまり込んで努力が努力にならないことにならないよう、あれやこれや考える。考えても、考えても、尽きない。その尽きなさは、けして苦しいばかりのことではなく、ときにはすごく楽しかったりもするが、でも「なんだかなぁ」と思うこともある。分かってもらうのも、伝えることも、簡単じゃないなぁ、って。
いつかこういうことをまとめて本にして残しておきたいと思うが、私の言葉がちゃんとステップを得て踊りになるまで、まだしばし時間を要しそうな気がする。

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