えこひいき日記

2009年3月26日のえこひいき日記

2009.03.26

先日「浦島太郎」のことを書いたが、河合隼雄氏がそのことを書いているのを発見。『母性社会・日本の病理』(講談社α文庫)という本の中の「第四章 物語は何を語りかけるか」がそれである。(『昔話と日本人の心』の中にも「浦島太郎」の話は出てくるが、たぶん、『母性社会・・』のほうが古い。自分から玉手箱を開く「浦島太郎」の話なども紹介されていて面白い)文庫は1997年に第1刷が発売されているが、もともとの文章は1973年に書かれた論文である。河合氏はこれを45歳のときに発表している(そのことは『飛ぶ教室』という雑誌の2008年冬・12号の「追悼・河合隼雄 河合さんと子どもの本の森へ」の中の年表で知った)。すげぇ。
ちなみに「すげぇ」の意味は2つ。一つは、いまさらながら、河合隼雄という方の類まれなる才能に。もう一つは「本になっている」ことのありがたさに。彼が「浦島太郎」のことを論文に書いたときに、私はまだ小学校にも行っていない子どもだった。小学生の私がオンタイムで彼の論文(思想)を理解するのは、多分無理だったろうと思う。でも、本になっている。だから、私は今彼の考えに出会うことが出来る。それって、すごいと思うのだ。

本当のことを書ける、ってすごい。それは古びない。時間が経っても、書き手が死んでも、誰かに届く。
そういえば、池田晶子さんの本が「3部作」として発売される。3冊のうちの2冊『死とは何か さて死んだのは誰なのか』『魂とは何か (さて死んだのは誰なのか)』はすでに発売され、最後の『私とは何か』も4月2日に発売される。たしか、その前に発売された『人生は愉快だ』のキャッチコピーはこうだった。「死んでからでも本は出る」。

昔、ある原稿を抱えた知人がこんなことを言ったことがある。「書くと、残るから嫌だ」。それは「今書いたことは、後に意見が変わるかもしれない。そのときに“あのときはああ書いたじゃないですか”と、以前のことが間違いのように言われるのが嫌だ」という意味らしい。それはその知人の性格を反映した「らしい」言葉ではあったが、私はそういう考え方をしたことがなかったからとても驚いたのを覚えている。私だって、人に揚げ足とられて責められたりするのは嫌でござんすよ。でも、私は、残したいから書く。残したいと思える「もの」や「こち」を「書ける(言語化できる・表現できる)」ようになりたい、と思う。いつも言葉を捜している。なかなかどう言ったらいいのかわからないで悩むんだけれども。
本当のことを書くということは、厳しいけれど、温かいことだと思う。本当のことを読むというのも、そうかもしれない。

たとえ書き手が死んでも、「本当のこと」は届く。・・・そんなふうにいうと、ともすれば「本当のこと」、普遍的な何かの前では、個人の生き死になど取るに足らない、と言っているかのように聞こえるかもしれない。あるいは「肉体なんてただの器だ」「信念や思想こそ至上。身体のことなど気にして生きる必要はない」という考えに類した発言のように聞こえるかもしれない。現にそういう考え方の人も居る。
でも、私はそう思っていない。むしろ、この肉体というものを伴っている、身体というものを介してしか受信も発信も出来ない、といいうことが「本当のこと」にとって重要なファクターなんじゃないか、と思っている。
それは私がたまさか「からだのこと」を仕事にしているから、とか、からだに自信があるから(個人的には「からだに自身がある」ってどういう状況を指すのか皆目判らないんだが・・・「体力がある」とか「スタイルがいい」とかってことが「からだに自信がある」なのか??と推測したりもするが、どっちもねーよ・・・私が「からだのこと」を仕事にしているのは「からだに自信があるから」だ、という視点があることを最近知った)ではない。
自信があるとか、何かより偉いとか、価値観の優劣を争ってのではないのだ。優劣に興味はない。私が知りたくて、書きたいのはそれとは少し違うことだ。
でも、じゃあ、何が書きたいんだろう・・・と自分で思う。「それ」を何と呼んだらいいのか、よくわからないのだ。「からだ」というのも「それ」なんだけれども、「それ」を「からだ」と呼んでよいのか、となると、自分の中でちょっと気持ち悪さが残る。まるで無理やり既製服にからだを詰め込んだような感じ。そのまま着て動けなくもないけれども、窮屈なのだ。まだ言葉を捜している。

あ、そういえば『八雲百怪 2』(大塚英志+森夏美 角川書店)という漫画にも「浦島太郎」をモチーフにしたお話が出てくる。「浦島」の話が他の物語の中で生きたメタファーとして使われている・・・と思うと、まるで合わせ鏡の中を覗いているよう。面白い。それにしても、浦島太郎・・・残念な人。

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