えこひいき日記
2009年3月29日のえこひいき日記
2009.03.29
最近「いわゆる、スピリチュアル、ってどう思いますか」と相次いでクライアントさんから聞かれた。例えば、演奏家やダンサーの間で「これをつけているとうまく弾ける」ないし「踊れる」と言ってパワー・ストーンのブレスレッドをつけている人がいるのだが、それで本当にうまくなるのか、とか、以前とあるアレクサンダーの先生がご自分のホームページに風水のコーナーを持っているのを見たが、アレクサンダー・テクニックと風水には何か関係があるのか、とかである。
この質問をしてくださる方は、基本的に質問の対象になったモノを「疑っている」。しかしそれは「興味がない」ということでもない。何か気になる(今のところ、不安まじりの風味で。「それでいいのか」みたいな)、という感じであろうか。だが話を聞いてみると、それは、「スピリチュアル」そのものへの思いというよりも「スピリチュアルにはまっている人」に対する懐疑、と言ったほうが正確であることが多い。ことが「スピリチュアル」であるから「怪しい」のではない。本質的には「はまる」「それだけ」という視野狭窄に陥った人間のやり方が「怪しい」のだ。(先日書いた「テクニック」の問題ともかぶるけれどね)
だからこれは本当は「スピリチュアル」の問題ではない。なんにでも・・・例えば、健康オタクにも、学術的権威をやたら振り回す人にも存在する「怪しさ」なのだ。それは「健康」や「学術」が怪しいのではない。それ自体は怪しいものでも怪しくないものでもない。でも、その使い道がときに「怪しい」ものだったりする。使い方を誤れば、本来正しいものが正しくなくなる。素敵なものが素敵ではなくなる。人を幸福に出来るもので人を不幸に出来る。経済も、教育も、福祉も、包丁でも鉛筆でもガラスのかけらでも、とても素敵な存在になれる一方で、やり方を間違えれば凶器に変われる。
いちおう書いておくと、「アレクサンダー・テクニック」と「風水」の間には直接的な関係はない、と、私は認識している。それぞれの成立年代もまったく違うし、洋の東西も異なる。だから、それらを同時にお書きになったりおやりになったりしているのはその方個人の趣味や興味だと思う。
それから、「パワー・ストーンをつけていると・・・」という話だが、私はその「効果」を頭ごなしに否定するつもりはない。だが同時に「つけておけば成功する」というほどお手軽な話でもない、と思っている。でも「依存」ではなく「信頼」ができれば、「成功する」というのもあながちまやかしでもない話だと思っている。
何に依存せず、何を信頼するのか。それはシンプル。石に依存せず、自分を信頼すれば、なのである。だから、直接自分自身を信頼できるのならモノなんて関係ないのだろう。ただ、そんなに人間は図太くない。だから、モノを「信頼」の媒介にする。何らかの意味で、信頼できるモノを。愛情や愛着を注げるモノを。
モノを通して自分自身を信頼するためのバイパスを作る、というのは珍しくない話だ。例えば、お気に入りの練習着で練習するのと、あんまり好きじゃない練習着で練習するのとでは、なんだかノリが違う、という経験はないだろうか。「練習着」が「良い結果」を保証するものではない。でも「良い結果」に結びつきやすい自分の中の「波」「ノリ」「(いけそうな)感じ」のようなものをキャッチしやすくするアイテムになることはあると思う。その「ノリ」ってやつは、あくまで日々積み重ねてきた練習を基盤に生み出されたもので、何も稽古着から生み出されるものではない。だから何の努力も稽古もしていない人がいくらお気に入りのコスチュームで身を固めたところで、気分のいいコスプレ以上の出来事にはならない。テスト前に誰かのノートをコピーして、しこたま紙束を手にしたところで、それが「勉強した」「身についた」ということにはならないのと同じだ。
でもしばしば「気分」は自分を騙す。中には自分を騙せる気分を作り出す作業(「コスプレ」や「ノートのコピー」ね)だけをし続けて、それを「努力」だと勘違いしている人もいる。その作業だって、労力や経済力が要ることではあるが、残念ながら「苦労」や「苦心」ではあっても「努力」ではないのだ。「気分」で自分を騙した人が「気分」で自分を回復させようとする・・・それが、例えばやたらとパワー・ストーンに頼ったり、占いには待ったりすることで合ったりする。最初の話で、「スピリチュアル」に懸念を示した人たちが警戒するのは、このことなのである。
一方で、ちゃんと練習を重ねて自分の中に何かを持っている場合でも、ある条件下ではそれ取り出しにくくなることがある。いわゆる、プレッシャーやストレスがかかったときである。何がその人にとって「プレッシャー」や「ストレス」になるかはさまざまだ。ある人にとってはなんでもないことが、別の人にとっては大変なストレスになることもあれば、逆もあるし、自分で自分のストレス源をまったく理解していないこともある(だから人は、一般化された乗り越え方のハウツーを知るよりも、まず自分を知るべきだと思う。そうでないと、せっかく知識として輸入したハウツーもテクニックも生かせない。私が個人レッスンにこだわって仕事をするのもそれが理由である)。
例えば「やる気」すら「プレッシャー」になることはある。何かをちゃんとやりたい、成功させたい、という気持ちはとても正当なものだ。しかしこれが戸板返しのように裏返って、「できなかったらどうしよう」「失敗したらどうしよう」という気持ちに化け、そちらのほうにばかり気をとられて、実際の行動もそれにばかり対応したものになってしまっていることがある。
「失敗を犯さないように行動する」。一見、とても正しいように思えるが、こればかりでは自然な動作が失われ、行動する喜びも薄れてしまう。失敗が起こらなかったとしても、そこにあるのは喜びではなく、プレッシャーから解放された束の間の安堵だけで、すぐにまたそれが始まるのかと思うと考えるだけで疲労する・・・ということも起こりかねない。人によっては「そうしたプレッシャーに耐えていくことがものごとを続けるには必要なのだ。耐えることが強くなるということなのだ」と考えるかもしれない。しかし私は違うと思う。「耐久」と「持久」は似て非なるものだ。身に着けるべきは、耐える力ではなく、続けていける方法である。そのエネルギーは耐えることなんかに使うべきではなく、真に動くために使うべきだと思う。
この「耐えている」ことを「努力」と思い込もうとするような行為もまた、「コスプレ」になりかねない行為なのだ。これだけやってだめだったんだから、もう私のせいじゃない、周りもきっと苦しんでいる私を見て責めないはず・・・いつの間にか、そういうことのために「努力」を「コスプレ」していることだってある。いつの間にか、「それ」がやりたいのではなく、失敗することや、人の目が怖くてやっている・・・本当の自分を見せるのが怖くてやっている・・・そんなことだってある。
ここでまた私は「本当のこと」ってなんだろう、と考えてしまう。最近思うのは、「本当のこと」って、本当にカクゴがいる、ということだ。本当のことを見られたり見せたりすることが怖いのではない。本当のことを、どうすればもっとクリアに見えるか、あるいは描けるか、ということに真剣にチューンするのに覚悟が要るな、と思うのだ。これでいい、ということがない。失敗しても、腐らずに進まないといけない。くだらねーと思うことが日常に起きて心が死にそうになっても、冷静に寝て起きて考えて、また立ち上がらないといけない。
ひょっとしたら私はものごとに対して厳密すぎるのかもしれない。ひとによっては、私が問題にするこれらのことが、すべて「考えすぎ」に思えるかもしれない。もっと「てきとーで」よいと思う人もいると思う。そう考える人はそれでよいのだろう。それで欲しいものが手に入るならそれでいい。何かを手に入れたいと思ったら、それぞれに、それにふさわしい方法を取らねばならない。それだけのことだ。
ものごとを行うときに、まったくリスクがない、ということはありえない。しかし同時に、何かをするたびに起こるとは限らないリスクにばかり気をとられ、準備といえばそればかり、というのも現実的ではない。それどころか、過剰なリスク・マネージメントはプレッシャーやストレスを強化することさえある。また、自分の考え方やからだの使い方を把握しないことによって、誤解を放置したり、その上に「努力」を重ねてしまうことも、プレッシャーやストレスを強化する原因になっていたりする。本当にするべきことはなにか。本当は自分は何をしたいと思っているのか・・・多分、私はそれにチューニングする方法の一つとして、この仕事をしている。
何かを本当にしたい、と思っている人が、どうすれば力を発揮できるのか・・・というか、その方法に見えてそうではない「罠」をどうかいくぐるか、恐れや都合に目潰しされず自分の心に嘘をつかずに自分の「本心」を知るか・・・ということがわかると、他人から言われなくても自ずと「やる気」とか「すべき方法」なんて見えてくるような気がする。そういうのが一番いいなぁ、と思うのである。