えこひいき日記

2009年4月24日のえこひいき日記

2009.04.24

先日、生まれて初めてあるものを買った。それはサングラス。おもちゃのようなサングラスを出先・旅先で購入したことは何度かあったが、ちゃんとした(?)のを購入したのはこれが始めてであった。

私はびっくりするほどめがねが似合わない。
そう言うと、友人の多くは「そんなことないやろ」と言う。「そんなことないやろ、例えば、こういうタイプなら似合うんじゃない?」などと、手近にあっためがねを差し出されることもある。しょーがないのでかけて見せると、たいてい友人は「あー(*語尾下がる)」と言う。ほらねほらね。どういうわけか、私は大方の予想以上にめがねが似合わないのである。何がどうだから似合わないのか、自分でも良くわからない。めがねを必要とするような視力ではないせいもあり、幸か不幸か追求する必要性もなかったので、わからないままなのだ。
そのようにファッションアイテムとしては「鬼門」のアイウェアなのだが、一般的なめがねとは異なり、サングラスにはグラスに色がついていて、レンズも大きめ。なので普通のめがねより「似合わないわけではない」確率が高いことが期待される。なにより、目が疲れているときに外に出ると、どうしても顔をしかめてしまうので、これはサングラスを買ったほうが良いかな、と思ったのだ。

とはいえ、サングラスを買おうと思いたっても、アイウェアになじみのない私にはどんなのが似合う(というより大丈夫)なのか否か、まったくわからない。
そこで率直にアイウェア・ショップのお兄さんに聞いてみた。「どういうサングラスが自分に合うのかわかりません。どういうのが合うと思いますか?」すると、お兄さんは数歩下がって首をかしげ、「んー、お客様の場合、目と眉毛の間が開いているわけでも詰まっているわけでもないですし、顔の大きさも大きくなく、頭の形も大きくなく、顔の輪郭も角ばっていませんし、あごや頬が極端にとがっているわけでもありません。鼻の高さも低くないですし・・・・んー、お客様の好み次第ですね。似合わないのってないと思いますよ」
んー、それって、どう解釈すべきなのだろうか。
確かに、顔立ちに特徴があると、似合うものが限定的に指摘できる。店員さんにとっては「アドバイスのしがいがある」といえるのかもしれない。その特徴を持った本人は「これしか似合わない」と、自分の特徴を「ある種の限界を強いるもの」と認識しているかもしれないが。でも「これ!」というものがとっても似合う、というのはやはり素晴らしいことである。それが自分でも「好き!」と思えたら最高に幸せだが、もしも自分の想定した「好き!」と多少ずれたとしても、「似合う」という事実を認めれば、それはきっと自信に変わる。主体的に自分の身体を受け入れれば、結構自分を信頼できるし、出来ることやしたいことも見えてくるものなのだ。
では、これといって特徴(またはリミット)がなく、「なんでも」とか言われてしまった私の、「私らしさ」とはサングラス部門において何になるのであろう・・・私の、サングラス部門における「似合う」とは何なのだろうか・・・。奇妙なもので、ある場合には「リミット」にしか感じられない「特徴」が、迷える心を持つときにはその「リミット」こそ「安定」に思えたりする。身体的な特徴に依存して、それに似合うものを「決めてもらう」ことが出来ない場合、私の「似合う」を選び取るのは結局何か・・・。これを洗い出すために、とにかくいろんなサングラスをかけまくってみるしかないのだろうな。そしてその一つ一つを、見て感じるしかない。

ともかく、今回としては、お店にあるサングラスをある程度かけまくって、「これがいいかな」というのを選んだ。何が自分に似合うのかわからなくても、何が違うかは、わかる。そして当たり前だけれども、「似合うサングラス」とは、サングラスが直接触れる体の部分とのバランスだけではないな、と思った。最も直結するのはやはり顔なんだけれども、肌の色合い、普段どんな服を着るのかも、とても関係する。そういう全体的なことが関係すると同時に、グラスの大きさ、カーブライン、ステムの長さや幅、といった微妙なものが結構印象を左右することもわかった。全体と部分。引きの視点と寄りの視点。どちらが欠けても見えなくなるものがある。
特徴がないからこそ、私の「似合う」は私の意志一つの問題なのかもしれない。私はどんな私になりたいのか。さて、私は何がしたいのだろう。

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