えこひいき日記
2010年2月25日のえこひいき日記
2010.02.25
昨日、クライアントが来る合間(5分前!)に浅田真央選手のショートプログラムをテレビで観戦。観ながら吐き気がするほど緊張していた。なぜだろう、うちに来てくださるパフォーマーの本番を拝見しに行ってもこんなに緊張することはない。自分の講演とかワークショップで緊張してもこんなふうにはならない。
情報がないから緊張する、というのもあるかもしれない。クライアントさんなら、まがいなりにも「その人」を知っている。そういう意味で、何が起こっても信用できる。わたし、浅田真央ちゃんに会った事もないもんね。だったら、会った事もない人にどうしてここまで気持ちを重ねるんだろう。きっと日本のいろんなところで私みたいに緊張している人が一杯いたと思う。魅力・・・って、そういうもんなんだろうな。まっすぐで、かわいいんだもん、真央ちゃん!
オリンピックのような舞台ではなおさらだが、全くのぶっつけ、これがお初という状態で本番を迎える人はいない。いわゆる即興ですら、そこまでの積み重ねがなくては成立しない。その場で披露できることはずっとずっとしてきた「こと」。練習してきた「こと」。しかし披露の「場」はいつも練習してきたところではない。だから、その「場」に応じる(空間の大きさ、床の硬さ、ライトの当たり具合、音響・・・諸々)べきことも生じる。変えることと変えないこと。自分がしてきたことを背後において、これからすることを観客に「伝える」ために、パフォーマーが最後にする努力はその選別と行使だという気がする。
私にとっての「本番」は日々のレッスンかもしれない。私のところにはバラエティに富んだクライアントが来るので、経験的に私がしたことのないことをレッスンのテーマにしてくる人も多い。だから今日来るクライアントが私に何を質問するかはわからない。それが自分にわかることなのか、わからないことなのかも、わからない。広義の意味で準備として出来ることは山ほど在るが、何がどれの準備になるのか、それもわからない。
「こわくないですか」とよく聞かれる。「こわさ」の意味にもよるが、こわくないことはない。でも「わからないかもしれない」ことは、そんなにこわくないかもしれない。多くの場合、恐怖の対象になりうる「わからない」の意味は「確信が持てない」とか「正解かどうかわからない」という意味だ。裏を返せば、それ未満のことはある、つまり「わかる」可能性があるのだ。私が「わからない」という「こと」や「ひと」を怖がっていないように見えるとすれば、この「未満のもの」を可能な限りつぶさに見るようにしているからだと思う。そこから見えてくることは膨大にある。
その「未満のもの」を拾い上げる作業を「観察」と呼ぶこともある。「からだの使い方」を学ぶことで何らかの状況の好転・向上を望む人たちに、レッスンの最初に「してくださいね」とアドバイスすることはたいていこれ、「観察」だ。本当に生きた「からだの使い方」を修得したいのなら、早急に「よいからだの使い方」に乗り換えるのは得策ではない。まずは知ることから。「観察」は、自分が「なにもしていない(ふつう)のつもり」で何をしているのか知ってもらうためだ。自分が「なにもしていないつもり」でしてきたことの中には、よいこともあれば、本当にやめた方がいいこともある。その選別をしなくては、これまでのことを活かしたうえでその先に行くことはできない。「よい」方向を望んでいるのに、そのよしあしも自分ではわからない。それはすごくつまらないことだと思う。最低限の自覚がなければ、あらゆる教育はただの洗脳。人間は「よい」とささやかれたことに無条件で跪く、けっこう情けない生き物になってしまう。
だが、特に、結果以外のことはこの世に存在しない、というような認識世界で生きてきた人たちはよく「わからない」を連発する。
「よくなったかどうかわからない」「これでいいのかわからない」「何が起こっているのかわからない」「何をしたらいいのかわからない」。
さて、問題です。上記の「わからない」の意味を、翻訳せよ。
翻訳例としては以下の通り。「好転向上したのか、確信が持てない」「この方法・状況のよしあしの判断をするには材料が足りない」「自分が予想したことは起こらなかった」「間違うのが怖い」
「わからない」には、わかることとわかっていないことが混ざっている。その内訳を理解すれば、わかり方がわかってくるのでは、と思う。
こういうプロセスを経るのが「めんどくさい」と思う人はどうかレッスンに来ないでくれ。そういう方は、「自分でわかる」ことを大事に思っていない。そういう人間には、正直、興味がないし、私がして差し上げられることもないと思う。
さて、スケートのフリーが楽しみだわ。