えこひいき日記

2010年4月20日のえこひいき日記

2010.04.20

アイスランドで火山が噴火中。ヨーロッパを中心に航空便が止まっている。それは遠い国の出来事のようで、近いことでもある。人の流れや物流が止まる。その影響力は距離の遠近とは関係ない。いや、遠いところとをつなぐ手段が航空便であるからこそ、むしろ影響は大なのである。
このことでシリアスに困っている方もいる中で恐縮なのだが、「火山の影響」ってなんだかすごい。雄大。火山が一つばーんとなって、人間がわらわらする、ってなんだか不思議だ。困ることなのに、嗤いたくなる。
人間なんかちっぽけだ、と感じられることが、何故人間の身である私にとって時に愉快なのだろう。「何故なのだろう」といいながら、疑問形でそう思っているわけではない。ただ不思議なだけだ。「困る」ことと「嗤いたくなる」感情がどちらも本当なだけに。多分私の中に、「人間であることが苦しい」と思う側面があるから、それを「ちっぽけ」と思えることが爽快なのだろう。
昨今続いた子供の虐待や家族が家族を殺す事件の報道を見るしんどさに比べたら、火山のばーんの方に救われてしまう。

あるドキュメンタリーの映画監督が「人間って、皆いい人なんですよね」と言っていたのを覚えている。その監督は、凶悪事件を起こした団体や個人に取材を行っては映像に納めている人だ。凶悪事件を起こしたとわかっている人間に会うというだけで、普通は怖い。だが、怖い事件を起こした人間が怖い人なのかというと、(どのようなことを「怖い」と思い描くかにもよるかとは思うが)たいてい違う。怖い事件を起こす人間は、或る意味弱い人間だ。恐れや不安や疎外感が、人に怖いことをさせる。同時に恐れや不安を知る人間は、人の気持ちの動きに敏感で、そういう意味で時にやさしい。「怖いだろうな」と思って会った人が予想通りの「怖いこと」をしてくれたら「ほらやっぱりね」となるのかもしれないが、そういう流れになることはあまりないのではないだろうか。それだけに、「怖いんだろうな」と思って会って「怖くない」面を先に知ったなら、多分その人を「悪い人」とは認識しにくいだろう。
そう、「悪い人間」という人間がいる、というよりも、「人間」には「悪い」面や「怖い」面がある、といったほうが正確なんだと思う。私はそのドキュメンタリー監督のように意識的に(?)「怖い人」に会いにいくわけではない。だが、結果的に、人間の「怖い」面に触れることはある。その人のやさしい面や美しい面も同時に見えるだけに、当惑することもある。だが、これが現実だ。人は、ある状況下では、吐き気がするほど下卑た生き物になることがあるし、目を覆いたくなるほどの行為を全く悪気なく、平気ですることがある。それが現実なのだ。現実を否定しても仕方がない。たとえそれが耐え難くても。
教師としての私は、相手のとんでもない行為や言葉を目にしても、それに対する自分の感情を最初に表現することはない。私の仕事は、相手が無自覚のまま行っているその行為をいかに自覚化してもらうかということだからだ。必要と判断すれば、その場で何か言うこともあるが、行為の程度に関わらず、機会でないと判断すれば何も言わないこともある。ただ、個人としての私の感覚や感情は別だ。耐え難い気持ちになり、絶望的になって、本当に後で吐いてしまうこともある。

耐え難い、と感じたいわけじゃない。でも耐え難いことを耐え難いと感じられ、すぐに反応できる肉体を供えていることは、私の幸運なんだろうと思う。耐え難いことを耐え難いと思えなくなったら、終わりだ。耐え難い、と感じる痛みから逃れて、あるいは我慢して、感じていること自体を封じてしまったら、終わりだ。この耐え難さは終わらなくなる。

虐待行為をどうすればなくせるのか、という問いかけに対して端的な回答を出すのは難しい。私の知る限り、虐待そのものをしたくてする人は少ない。しかしその行為でしか自分のある種の感情を処理できなくなっている人は多い。だからある種の感情が沸き起こるたびに、その行為に依存する。身体的なクセと原理的には同じだ。ある動作をするのに、特定の、しかも無理のある動きに慣れてしまうと他の動かし方が出来なくなる。それは物理的な可動域が失われたからではない。神経組織の損傷でもない。物理的には依然として動ける可能性があるのだが、「それ」がわからないという状態、動作と認識の結びつきの問題、運動領域的には神経系トレーニングの要素だ。つまり、結びつき、関係性が成立しなければ本質的な改善ではない。行為だけ止めたところで、あるいは責めたところで、解決とは呼べないのだ。
私に何が出来るかわからない。すぐに解決に導ける可能性も薄い。でも、何もしないより、まし。関心を持たないより、まし。
「まし」という自分に出来るbetter than worstをそれぞれが重ねて、どこかに抜けられることを、祈るような気持ちで願う。

孔子の言葉にこんなのがあるそうだ。

過ちを改めざる、これを過ちという

少しでも明るい方向に歩いていけるように。

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