えこひいき日記

2010年6月10日のえこひいき日記

2010.06.10

不可解で、よくわらないんだけれども、だからこそ心にとどまり続けること、って在るような気がする。
例えば、悪夢を見たとする。「それ」が「悪い夢」と判断された瞬間から、人はその「悪さ」ゆえに「それ」を忘れようとするだろう。善い夢だったならばなったで、その「善さ」ゆえに安心して忘れてしまうことだろう。人は早くオチがつくことを求めるくせに、オチがついてしまった「もの」に興味を持ち続けることは少ない。本質的に価値があるとかないとかとは別に、「それ」が「善い」とか「悪い」とかいうオチで認識されたとたん、なぜか「安心して」忘却される方向に流れて行ってしまう。だからオチをつけることは、「それ」を知る、ちゃんとみる、自分のものにする、ということとは異なる。それ自体に気が付いていないこともあるけれど。
人はけしてさっさと忘れ去るために何かをわかろうとしているわけでもないとは思う。でも、なぜかそんな力学が働きがちなのも現実。書かれたはしから紙くずになっていく最新情報という名の知恵のかけらたち。それを追いまくることに躊躇わず勤しみ「俺って燃えてるぜ」と思う人もいるのかもしれないけれど、そんなのを追っても追っても「ほんとうのこと」が見えてこなくて、突然アンニュイな気分になることもあるような気がする。いわゆる情報社会の限界ってやつ?
でも、オチ付けの呪縛から自分を解放して、「なんだかよくわからないけど、忘れないでいてみようよ」と思ったとたんに、どんと開ける何かがあるような気がする。それはけして「いつかきっと白黒つけてやる!」みたいなファイター的野望(ないし屈辱感)に燃えたものではなく、こころの中に儚くもはっきりとしたい場所をみつけてしまった「何か」なのである。

そういうことって、実は、「生きて、考える」ってことなのかな、などと思った。

以上、『授業』というお芝居を拝見して思ったことであります。

すごく印象的なお芝居だった。ともすれば、重苦しく難解になりがちなお話を、軽やかさを伴って描かれていて、面白かった。このお芝居は13日まで京都芸術センターでやっているので、興味をもたれた方はGO!

イヨネスコ(余談だが、この人が私の好きなエリアーデのお友達だったことは最近知った。びっくり)作『授業』は約60年前に書かれた戯曲である。登場人物はわずか三人。いわゆる「不条理劇」と呼ばれるお芝居だが、がちのストレート・プレイである。
ある片田舎の自宅で私塾を開いている教授のもとに一人の女生徒が授業を受けるべく訪ねてくる。授業は穏やかに始まったかに思えたが、授業の熱は妙な具合に傾けられ、だんだんとんでもない方向に…というお話である。
出演者が私のクライアントでもあったので、レッスンの際に戯曲を拝見したのだが、なかなかどうして一筋縄でいかない。教授が「授業内容」として話すことも、生徒がそれに対して応えてくる内容も、どちらもとっても理屈っぽいくせに理屈が通りきっておらず、だが全く通っていないわけでもない、という難物なのだ。こんなセリフをどうやって「役の言葉」として生身にするのか…と思っていたが、流石流石。舞台上で受肉した台詞たちは見事に客を引き付けておりました。いやー、お芝居に「する」って、すごい。

それにしても、『授業』の魅力にして難関なのが、この「理屈になりきらない理屈」である。「理屈」というと、悪いイメージに偏ってしまうかもしれないが、「理屈」は「理のつまるところ」であり、根っからの「悪」ではない。ちなみに「理」と「理屈」を『広辞苑』から引くと以下のようにある。

「理」
①物事の筋道。ことわり。②(仏)普遍的な絶対・平等の真理。理法。③中国哲学で宇宙の本体。④自然科学系の学問。

「理屈」
①物事のすじみち。道理。ことわり。②こじつけの理由。現実を無視した条理。また、それを言い張ること。③色事。情事。④やりくり。金の工面。また、心づもり。手はず。

①に関しては同じなのに、②以下から運命は分かれる。「理屈」はいかにして「理」から外れ「理屈」になってしまうのか…
そこにあるのは、二つが別物であるかのような違いではない。量的な差のみである。つまり、過剰であるか、否か。この「量的な差」がもたらす違いは想像以上に大きいような気がする。結果として質的なものまで変えてしまうような。(奇しくもそれに相当する会話が『授業』の中でも展開される。興味のある方はレッツ・チェック!)

このお芝居は、ナチスに対する批判が下敷きにあって書かれたといわれているらしい。確かに劇中の教授のふるまいなどはそれを連想させなくもない。しかしこの劇の本質は、どちらが加害者で被害者かという話ではなく、あるいはどこの国の、どこの時代の話だということに留まらない問題を描いているように思う。ある種の純粋主義や偏執的に理想を極めようとする「過剰」さが何をもたらしてしまうのか…それは面白くも悲しく、今も昔も、大や小を問わず、今日もどこかで起こっているお話なのである。

今日も明日も起こり続ける問題を、白か黒かにオチを付かせる目線で見続けるのは難しい。普遍的なものを見続けるには「違う視点」が必要なんだな、と思う、今日この頃であった。

カテゴリー

月別アーカイブ