えこひいき日記
2010年6月14日のえこひいき日記
2010.06.14
惑星探査機「はやぶさ」君の帰還に思わず涙した私であった。
苦節7年、「はやぶさ」君は帰ってきた。正確には、カプセルを持ち帰って本体は大気圏で燃え尽きた。
既にニュースなどでご存知の方も多いとは思うが、太陽系の成り立ちを調べるべく惑星イトカワへ行って石を採取してくるという任務を背負った「はやぶさ」君の旅は、さながらイスカンダルに向かう宇宙戦艦ヤマトのように苦難に満ちていた。ヤマトのように「敵」に攻撃される苦難ではないが、通信機器が壊れ、燃料が漏れ、イオンエンジンが壊れ、そういう壊滅的な危機を何度も乗り越えなくてはならない旅だったのである。
へんな言い方だが、こういう危機を乗り越えるのって、時に「敵」に攻撃されるよりきついんじゃないのだろうか。その苦難が外から来たものだったなら、その苦難をもたらしたものを憎むことができる。仮に自分がこの難関を乗り越えられなかったとしても、全部「敵」のせいにすることができる。だが、こういう苦難は、何があっても自分で受け止めて解決しなくてはならない。苦難に直面するたびに「こうしておけばよかったのか」「こうしたのがよくなかったのか」という気持ち(外部の非難も)や、自信を喪失して投げ出したくなる気持ちや、でもあきらめたくなくてもがく気持ちを全部、自分で受け止めて前に進まなくてはならない。苦難を一つ、乗り越えてもそれについていちいち他人は誉めてもくれない。
でも、だからこそ、「敵」に対してではない「勝利」は尊い。何にも換えがたいと思う。
そしてそこには平たく言っても「奇跡」と呼べるようなことがあったようだ。プロジェクトチームの教授も会見でそう言っていた。教授は、凄くいい表情をしていた。機械なんだけど、人間みたいな「はやぶさ」君。魂というものを、「はやぶさ」君は乗せて旅していたように思えた。人が生み出し、人の代わりにイトカワまで行ってくれたことを思えば、それも不思議ではないような気がするが、同時にやはり、放っておいても宿るようなものではないようにも思うのだ。魂って。
よくわからないもの、不確定なことを目の前にしたときに、信頼を持ってその成り行きを「ありのままに」それを見続けられる人間は少ない。何らかのかたちで可能な限り早急に「わかりたい」と思うのが常である。それが間違ったことであるとは私は思わない。問題は“どのように”わかりたいと思うか、だと思う。
現在ワールドカップ開催中。南米やアフリカのチームでは、チームの勝利を祈る祈祷師がつくことが珍しくない。まあ、こういう話題もワールドカップの度に繰り返されている話なんだが、今回もやはりそれに関する情報を紹介する番組があって、たまたま見ていた。
ある祈祷師がインタビュアーに「優勝チームを予言できるか」と問われて「私に見えるのは○○だ」と答えた。それを聞いてスタジオにいたコメンテーターが馬鹿にしたようにコメントした。「そんな予言、誰にでも出来る」と。祈祷師が口にしたチーム名がいわゆる強豪の、優勝候補チームだったからだ。
私はこのコメンテーターのコメントに違和感を覚えた。この人が、いわゆる世間の予想と、祈祷師の答えが一致することが、おかしい、と思っている理由は何なのだろう、というところにである。推測できる理由の一つは「これは“占い”ではなく“予想”なのではないか」というものだ。この祈祷師は自らの仕事をしてこの解答を導き出したのではなく、単に世間の予測を流用したのではないか、と思ったのではないか、ということである。確かにその可能性もなくはない。しかし、世間の予想と祈祷師の仕事が一致する可能性もまたあるはずだ。なぜ、「違うはず」という態度をとるのか。
そこに見えるのは、祈祷師がどうか、という話ではなく、このコメンテーターが祈祷師およびその仕事をどう思っているか、ということだ。その吐き捨てるような態度から推察するに、このコメンテーターは、基本的に祈祷師の仕事を尊重していない。ざっくり言えば、「いんちき」だと思っている。その上で(それゆえに?)、その人が思う“祈祷師らが出す回答”は常に「世間の意見からは外れた、意外なものであるべき」と考えているらしい。何故祈祷師の仕事に「意外性」を求めるのかはわからない。おそらく、それはそのコメンテーターの中の「距離」を反映したものなのだろう。自分の既存の「意」の「外」にあるという意味や距離において、極端に言えば「外」にあるものは「いんちき」なんだろう。仮に祈祷師が大穴の弱小チームの名を口にしていても、具体的な言葉は上記と異なるだろうが、同じ態度でその言葉をコメントしたのではなかろうか。
大きな試合の勝敗というのも「わからない」ことの一つで、「わかりたい」ことの一つかもしれない。でも、試合の結果は、試合が終わってみれば自ずと出るものだ。それを待たずに結果を知りたい、というのは「知りたい」「わかりたい」というよりも、「こうであって欲しい」「自分の予想(?)と一致して欲しい」という、祈りに近い「欲」のようなものかもしれない。
ファンであれば、誰しも自分が応援するチームの勝利を祈る。でも本当の「祈り」は、ごり押しや横車を押してまで自分のご贔屓さんに勝ってほしい、というようなものではなく、起こるべきことが全うに起こってほしい、というところに尽きるような気がする。だから本当のファンは、応援するチームの勝利を望みつつも、勝敗結果自体に事実以上に執着せず、対戦相手を讃えることもできる。そういうことが決まりごとだからではなくて、自然に出来る。起こるべき結果を受け止めることの出来るココロを持っている人を、私は尊敬する。
その人の「常識」とは「自分の世界」のことである。それは「事」か「理」かといわれれば、「事」なのかもしれない。「自分とはちがうもの」「普段と異なること」あるいは「わからないこと」に触れたとき、人は自分の「常識」「常体」を表す。その違い、「自分に(あるいは、自分で)はないもの」にどう応じるかで、その人がどんな人なのかがくっきり現われる。私の知る限り、自分が欲するところは何であるかを見つめ、それと向き合ってきた人は「違い」や「わからなさ」に対して保守的ではない。「違い」に違いを感じつつも、いきなりそれをボイコットしようとしたり、「敵」にして勝とうとしたり(?)はしない。だから「事」は最終的に「理」に通じることがあると思っている。
時々「あなたはUFOを信じますか」「幽霊を信じますか」というようなタイトルを冠し、それを「信じる」人と「信じない」人とでトーク・バトルをやらせる、という番組を見るが、あれほど不毛な論戦も他にない、と思ってしまう。まあ、結論を出すことを目的としない、あれはショウなのだ、といわれればそれまでなんだが。特に「信じない派」に「科学者」が入っているのを見るとがっかりする。おまえら、ほんまに科学者か、といいたくなる(罵詈雑言)。だって、自分が既に知っている知識だけで世の中の現象が説明できると思っている人が、科学者だとは思えない。科学者とはまだわからない現象が「ある」ことを認めて、それをわかろうとする、わかり方を探求する者ではないのか。
科学であれ、占いであれ、それを無疑問に信奉した瞬間からカルト化してしまう。私は自分の頭や心を使って考えたり感じたりしない人間が嫌いだ。
まあ、これだって私の科学者など「プロ」に対する「常識」、「尊敬していたい」という先入観がもたらす反動的感情なのだが。
罵詈雑言をはいてしまったが、私もまた、こんな風に「意」の「外」にあるものを批判することに勤しむだけで終わってはならない。批判したくらいでモノを言ったつもりになるのは下品ぢや。私は私に出来ること、思うことをがんばらんとね。
ともあれ、私には奇跡や魂を「普通に」伴いながら科学とか技術とかを磨き上げる人たちの存在に、遠くからダイレクトに励まされたわけである。
そういうの、好き。
内と外、静と動、柔と剛、直感的なものと合理的なもの・・・どちらもがバランスを取り合って「ある」のが好きなのだ。それが「世界」を構成するエレメントだと思っているから。