えこひいき日記

2011年2月17日のえこひいき日記

2011.02.17

私は日常的には電車に乗らない。通勤は徒歩だし、仕事内容は基本インドア、基本自分の事務所。だから、私がたまーに電車に乗って体験することは、多くの人にとっては珍しくもない普通のことなのかもしれない。でも「ふつう」とも思えなかったので書いてみる。

私が乗った車両は私鉄の「女性専用車両」というやつだった。この路線に女性専用車両が出来て、もうだいぶ経つと思う。つまり、経年の分だけ「そういう車両がある」という認識が一般化していると勝手に思っていたのだが、そこを基準にするなら私が見たのはそれを裏切る光景だった。車両に男性が乗っていたのである。視界に入る範囲だけで、七名。
「女性専用車両」の存在は、良くも悪くも「日常」の風景の中に「性別」というものを意識させる存在だ。何気なく当然にミックスで乗車してくる乗客たちが、「男性」「女性」という性を異にする存在なんだ、と意識させられる。意識しようとしまいと、性別は人が「ふつう」に備えているものだから、そのこと自体は自然なことだ。だが「なぜ女性専用車両が設置されることになったか」という経緯を考えてみると、「性」の別が時にお互いを対立的にというか、ちょっと迷惑な感じ思わせる側面から目を背けるわけにはいかなくなる。もちろん性の別が常に対立的なものであるわけではない。むしろ強く惹かれあう側面を持っているからこそ、ややこしいのだ。

ともあれ、女性専用車両には女性が乗る。少なくとも、私はそう認識している。だからといって「女性専用」すなわち「男性は絶対乗ってはいけない」「乗ってくるということは意図的な領空侵犯とみなす」「守らないやつはひどいヤツ」「女性の敵」とまで強硬に訳していい事柄なのか、私は戸惑う。だが「女性専用」というからには「優先」よりは強く「専用」なのだろう、とも思ったりする。そんなわけで、女性専用車両に女性だけが乗っていれば話は「ふつう」なのだが、そこに「ふつうに」男性が乗っている、という事態をどう解釈すべきか。
最初、男性が間違って乗り込んだのかもしれない、とも思った。しかしそれにしては彼らは「ふつうに」乗車しているのである。車両を移るそぶりもないし、慌てるそぶりもない。慌てることを抑えているのだとしたら鉄壁の抑制だと思うが、そうだとしたらそれは「抑制」というよりも「無視」に近いものに思える。「間違ったことを隠している」というよりも「コトそのものを、ない」としている感じ。でも、そんな手の込んだことをしてまで男性が女性専用車両に乗る理由がわからない。日本語が読めない?あるいは初めてこの路線を利用した人で「女性専用車両」を知らない人とか?それとも、他の車両よりこの車両が空いているからだろうか?でもこれも釈然としない。混み具合に大差があるようには思えなかったからだ。下車駅の改札とか、階段とかの位置関係からこの車両を利用したほうが便利なのだろうか?あるいは、何か意志を持って女性専用車両の存在に反対をしている人たちとか?だとしたら誰に何を訴えたいためにしているのか、それとももっと個人的な抵抗を示しているだけなのか?それもやはりちょっと不思議な感じがする。女性たちも基本、黙殺。わずかな緊張がないわけではないのだが、基本「何事もなかったように」乗客しているのである。居心地悪くないのかなあ。それとも「居心地悪い」が「ふつう」なのかな?
勝手にいろんな可能性を考えていても埒が明かないので、よっぽど立ち上がって男性の誰か一人に質問してみようかと思ったが、連れの人間に止められた。私に相手を責めるつもりはなくても、相手にとって私の行動が「意外」であるだけでそのように取られる可能性も有る、無駄に争いになってしまう、と心配されたのだ。もちろんそうでない可能性も片方にある。でも結局私はリスクになる可能性を優先してしまったので、今もって謎のままなのである。

同じ路線の帰りの電車でのことである。たまたま私は赤ちゃんを連れた若いお母さんに席を譲った。「どうぞ」と声をかけたのだが、その女性は動かなかった。聞こえなかったのかな、と思って「あの、よかったらどうぞ」ともう一度声をかけた。するとその女性は、あいまいに戸惑った顔をしたままひょこひょこと席に座った。「ひょこひょこ」に思えたのは、その方が「会釈」めいたものを示しながらも目もあわせずにそそくさと移動していったからだ。
彼女は席を譲られたくなかったのかもしれない、という可能性についても考えてみた。例えば、外の景色を見ているのが好きだ、とか、実は運動不足を気にしていてこの区間だけは立っていようと思っていたとか。あるいは、体調によっては「立っている方が楽で座っているのがしんどい」ということもありうる。
しかしその意思をも言語化ないし行動化させなかったのはなぜか。
ちなみに若いお母さんは席にずっと座っていた。曖昧に判断する限り、席に座っていることが苦痛とか嫌そうというふうには見えなかった。それで私は曖昧に安心しもしたのだが。

表面的にとらえると「席を譲ったのにお礼も言われなかったという話」になってしまうかもしれない。まあ、それも事実の一部なのだけれど、私にはこの人が「予想外のことに対応できない」のだと感じた。「自分の意志を、言葉や行動に表す習慣が、単に薄い」のだと。
そういう人はたくさんいる。彼女の目の色は、しばしばクライアントさんの中にも見ることがあるものだった。指示されたことや決まりごとには「習慣的に」対応できる。つまり、自分の意志や理解ではなく「そういうものだから」と決まっていることにはきちんとできる。そういう意味では、理解力や行動力といった能力が低い人ではないのだ。多くの指示や習慣は、多くの人と共有できたり共通の利益になる「よいこと」であることが多いから、機械的にそれを守っていても社会的に破綻したりはしない。しかし変化のない人生がないのもまた事実。そういうときに著しく戸惑うのがこの傾向の人たちだ。変化の内容を自分なりに判断しようとすると、まず「自分で判断したことは間違っているのではないか」と思ってしまう。「間違うのが怖い」「人から指摘されるのが怖い」「怖い目にあうくらいなら何もしないほうがいい」という方向になりやすい。あるいは、「これに従っていれば大丈夫」という「より強い権力の庇護」を求めることもある。いろんなことを次々と「勉強」して「より強き正しさ」で自分を守ろうとする人もいる。それが高じると「自分とは考えが違う人」を攻撃することによって自分の立場の安泰を証明することに躍起になる人もいる。
極端な無抵抗性も極端な攻撃性も、どちらも「思考停止」のサインであることでは共通している。思考ほど個性的なものはない。それが具体的にどのような言葉になり、行動になるかも、実に多様で個性的である。私は多分、その個性を愛している。だからこんな妙な仕事をしているし、「比較的」他人の自分とは異なる行動や思考に興味を持てたり、「比較的」拒否的にならずに観察できたりもするんだろうな、と自己分析する。だから「思考停止」を頭ごなしに否定する気にはならない。停止してまで守りたいものがあるんだろう、と思う。でも、その方法で守れるのか、いつの間にか何を守りたかったのかを忘れて、行為のパターンだけが抜け殻みたいに残っていないか、とも思う。

私が車内にたたずむ人たちの安寧を打ち破って、人に声をかけて他人の行動を変えさせるなどという「暴動」を「ふつうに」出来てしまうのは、私が「おばさん」になったからだろうか、などとも考えてみる。一般論だが、「おばさん」は口数が多い。脳内で思ったことが編集されずに言葉や行動に流れ出ていて、相手に向かって話していても「会話」になっていないことがままある。では「おばさん」や「おじさん」であれば一様にそうか、といえばこれも違うとすぐに思う。「おばさん」でもあるのかもしれないけど、「私」。みんな一人ひとり、「わたし」。

同じ車内で、若い女性が荷物をたくさん持った年配の女性に席を譲ろうとしていた。しかし年配の女性は床に荷物を置いたままの姿勢で身体を止めてしまったので、視界が狭く低すぎて若い女性の気配に気付かない。若い女性は自分の席から腰を浮かし、右手を少し相手に向かってあげたところで、声も出さずにまた自分の席に座ってしまった。

きっとみんな他人を傷つけたくない優しい人たちなんだろうな、と車内を眺めるともなく眺めながら思った。もやっとする思いもうっすら抱えながら。

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