えこひいき日記

2011年3月15日のえこひいき日記

2011.03.15

海外在住の友人から安否確認のメールが来た。東北関東地方の、ではなく、こっちの。
海外に居ると「日本で未曾有の大地震!」という、「日本」というくくりでの報道に触れることが多くて、本当に関西が無事なのか心配になったらしい。日本の報道機関の記事などをネットで見ても、被災が激しい地域の報道が中心なので(当然だが)「それは、本当に“関西が無事”ということなのだろうか、どれとも“相対的にましだから報道するに至らず”ないし“手が回らず”ということなのだろうか」と思ったらしい。
それに対するお返事はもちろん「あはは、だいじょうぶだよ」だったので、私もなんだがそう書けることに救われる気がした。同時に、そんなふうに誰かから心配していただけることに泣きたいような切なさを感じた。ありがたい、と思った。

物理的には本当に無事で、ただ報道を見て心を痛めているだけの私でさえ、無事を願ってくれた遠くの誰かの“想い”がこんなに響く。
それはきっと被災地の方も同じ、あるいはそれ以上なのではないだろうか。

“想い”だけで救助になるか!と思う人も居るかもしれない。
確かに“想い”は万能じゃない。私もそれだけで何もかもを可能に出来るとは思わない。
でも、例えば、深い穴に落ちて、救助には長くて強いロープが必要で、でもそれがまだ手元にない、というときに「今、ロープ用意してるから!もうちょっとがんばれ!」と言ってもらえることは、ロープに勝るとも劣らない“ロープ”になれるんじゃないか、と思うのだ。
万が一、“想い”を口にすることがなんの役に立つんだ、役に立つのはロープとそれを引き上げる力だけだと、救助者が機材以外のものに関心を持たなかったとしたら・・・と想像すると、私は穴に落ちた人の気持ちになって縮みそうになる。救助ロープが届く前に、私は穴の暗さや孤独に押しつぶされてしまい、物理的に穴から脱出した後でも“穴に落ちたまま”になるかもしれない、と思う。
念のために書くが、あ、つまり被災者に対して情報を与え作業内容を説明すればいいんですね、という話ではない。
救助だけのことではないが、ものごとに「○○すればいい」ということはない。ここで言いたかったのは、手段や行為も大事だけれど、「何も出来ない」「まだ何も具体的にことが始まっていない」この時間が苦しいあまりに、行為を焦るな、行為に逃げるな、“想い”のちからを見くびるな、という話。
“想い”は祈りであるし、展望である。理性でもあり、愛でもある。と、私は思う。

非・被災地に居る私たちは、被災者の方々とは違う形で“被災している”といえるかもしれない。
無事な私たちは、自分たちの無事をもてあますような感じにありはしないか。これでもか、みたいに津波や火災のシーンを何度も何度も見せられて、悲惨さを伝えるのが報道なんか!と苦しくなりながらも目が離せなくて、何も出来なくて、心が痛くて。早く何か助けになることがしたくて、でもどうすればいいかわからなくて、怒りや焦りに似た感情を抱いてしまってはいないか。今日も普通に暮らせることに罪悪感のようなものを感じて、なんだか自分に苦行(?)させたいような気持ちになる人もいるかもしれない。何とかしたい、と願う、優しい人ほどそうかもしれない。
だからこそ、冷静であってほしい。現段階で単身で被災地にボランティアに入ろうとしたり、物資を送ろうとすることは、かえって現地を混乱させる。また、募金等をうたった怪しげなチェイン・メールも出回っていると聞く。慌てず、確かな方法を見極めることは大事である。

相手への想いを抱くこと、時にそれを伝えること、そして冷静に自分を保つことも、支援のかたちだと、私は思っている。

がんばろう!いつかきっとみんなで「あはは、だいじょうぶ!ありがとう!」といえると思うから!

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