えこひいき日記

2011年3月12日のえこひいき日記

2011.03.12

いくつか安否情報をいただいた。少し安心したり。

昨日の大地震を受けて、人々の反応はさまざまだ。被災地が出身地であるクライアントさんが、今日のレッスンをキャンセルされるかなあ、と思いきや、「いいえ、こういうときだからこそ、です」と言ってお出でになったり。そうかと思ったら、地震のショックから(?)「休みます」と連絡してくる人があったり。
どんなときでも「日常」は続く。どんな「日常」であろうと。
私は今日をどう生きるべきだろう。

レッスンが終わるころ、友人からのメールで福島の原発の爆発を知った。友人は元学者なのだが、職業としての学者・科学者を辞めても、考え方の根本が科学的・理性的な人物で一方的な利益や願望のために決めつけたような表現をする人間ではない。その友人が憤ってメールを送ってきた。けして感情的な文章ではなかったが、心の底に流れるのは、悲憤、というのに近かったかと思う。

私は仕事を終えて事務所を出るときに「事務所」に挨拶をする。これは長年の習慣だ。出張してどこかでワークショップや講演をさせていただくときも、その「場」に挨拶して仕事を始め、「ありがとうございました」と言って去ることにしている。時間があるときにはその土地の神社等に挨拶させていただくときもある。

うまく言えないのだが、私には実に「いろんなもの」に助けられているという実感がある。もちろん事象の最前線には「自分」がいて、具体的な行動や努力は私自身がやらなくては話にもならんのだが、じゃ、自分で行動と努力さえすれば何でも叶うか、というと、そういうものでもない、と感じている。自分が行動と努力を傾けて到達しようと試みたものが「かなう」「うまくいく」には、自分以外の材料もそろわないとだめなんである。そういう「自分以外の要素」を、自分自身と対等に扱わないと、ものごとが「うまくいく」メカニズムにくみすることが出来ない、という感じがするのだ。
自分以外のものは、自分じゃないので、わかりにくい。わからないものを、排除する感情に流れるのは容易い。「敵」のように思ったり、自分の支配下に置くべく圧迫したり、逆に恐れてへりくだったり、そんなふうに「わかりやすいもの」に加工すべく、上か下かという「対等ではない扱い」にオチつくところを見出そうとしやすい。でもそのような「わかったふり」はあんまりうまくいかない。経験的に、そう感じる。
だから、私は「わからなさ」を「わかる」と同じように認めることにしている。自分の手に負えないものの力や存在を認めることにしている。ただし、怯えず、威嚇せず、なるべく普通な態度で。「こんちわ」という感じで。それは人のからだをみるときも、初めての場所に行くときも、同じだ。あるいはいつものことをするときも。時々、自分がこんな仕事をして、今日も生きていることが、とんでもないアクロバットのような気がするときがある。なんで私は今日も生きているのか、生きていられるのか、自分でもよくわからない。生き方に迷っているわけではなくて、生きている、ってこと自体がある意味私の手に負えない神秘かも、と思うのだ。うまく言えんが。
それで、なぜ「場」に挨拶するんだ?!、といわれると、きれいにつながる解答になるかどうかわからないが、自分を取り囲む「場」というものを自分自身と対等な「何か」の代表とすることにして、仁義を切っておこうという、私なりのけじめのカタチにすぎないんだけどね。

友人からのメールを読み、事務所を出るべく、いつものように「事務所」に挨拶をした。レッスン室から書斎に移って挨拶をしたときに、なぜか船越桂さんのリトグラフ『戦争をみるスフィンクス』と目があった。赤い絵で、「スフィンクス」なる人物(?)の顔がこちらを向いている。毎日同じ位置に飾ってある版画なんだから今日に限ってはたと目がそこで止まるというのも不思議なものである。私はなぜかその次の瞬間、しゃがみ込んで泣き出してしまった。どうして自分が泣いているのかわからない。わからないまんまだったが、ひとしきり泣いて「家に帰ってご飯を食べよう」と思って、立ち上がった。
私にとって生きているって、こんなことらしい。

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