えこひいき日記

2011年12月7日のえこひいき日記

2011.12.07

12月である。早い。毎年言っている気がする。
でも、今年は特に。

「あんまりそういうふうに意識したくない」という意識が働いてしまうのだが、でも、今年3月11日の震災以来、どこか自分の中の時間の感覚が飛んじゃっている感じがする。時間の流れや季節の移ろいというものを「感じながら」ではなく、均質に砂が零れ落ちる中に身をさらしているような感じの時間の流れ方になっているような気がする。普段なら何がしかのことを「感じながら」に当てられていた自分の中のスペースが、常に何か別のもので占められているような感じ、というか。
その感じは、ここちよくない。だからといってそれを「よくないこと」とか、「いや、しかたないこと」とか、適当な理由や価値を与えて、適当に自分をオチつかせようとするのも、きもちわるい。
だからなんともいえない半端な気分が持続しているわけなのだが、とにかく立っていようぜ、というのが今のリアルな感想かもしれない。

何かに反応することを、やめてしまいたい、と思った時期がある。
被災松を送り火に使うとか使うなとか、「テロの首謀者」の死を国を挙げて祝う大国のニュースとか、そういうことが「出来事」として大きいことはわかるけど、本質としてくだらねえ、と思っちゃったときに、もう言葉を書くこととか、言葉の元になるものが自分の中で発生したり何かに反応したりするのも、いやだ、と思った時期がある。

いやだ、かんじたくない、と思ってみると、確かに世界は「手袋をしたまま物に触っているような感じ」にはなった。本来さまざまな色や形や質感で存在するものが、ありえないほど均質に砕かれて混ぜられて見分けが付かなくなってしまうような感じ、というか。

そうすると、確かに私が拒否したかったものは拒否できるのだが、私が触りたかったものにも触れなくなることに気がついた。
つまり、私には自分が「何をどう感じるか」を予め選ぶことは出来ないんだな、と気がついたのだ。そりゃそうかもしれないけれど。感じてみなければ、それが自分が拒みたいものかどうかさえも、わからないのだ。
なるべくいやなものがきませんように、感じたくないモノを感じずにすみますように、と祈ることは出来るし、多分これからも祈る。でも、感じたくないものだけ感じない、ということは本当には出来ないらしい。感じたくないモノを感じなくすると、感じたいものも同じく感じられなくなってしまい、世界が一層つまらなくなるからだ。

そんなわけで、かんじないようにすることは、あきらめた。物事を感じた上で選ぶことにした。これまでより明確に。ときにはやっぱり遮断しながら。

ところで猫たちは元気。
特に子猫たちの成長は目覚ましい。まるは、先日避妊手術を終え、その途端ものすごく人に対して甘えっこになった。来たばかりの時にはいつもびっくりしたようなまん丸な目をしていたのだが(だから「まる」と名づけたところもある。あと、音の響きが肯定的なのと、なんか包括的で宇宙的にも思えるのがいいな、と思って)、今は少し涼しげな美少女系である。
さらに身体的変化が著しいのは寿音である。不思議なもので、毎日毎日見ていても「変化」を明確に認識するのは「ある日突然」なのである。明確に認知できる変化に向けて毎日毎日成長しているはずなのだが、それがある「かたち」になるのは「突然」である、という感じがする。
寿音は何より、脊柱の変化が著しい。ほんわり丸っこかった背中のカーブに、ある日明確に腰椎のカーブが現われた。肋骨と骨盤の間が短くて不安定に見えていたのが、ちゃんと距離が出現し、かつ安定した。その途端、四肢はすっくりと伸びるようになり、動作が抜群に的確になった。とてとてと絡まるようだった走り方はリズミカルになり、ジャンプも、狙ったところに正確に登れるようになった。それまでは、意欲はみなぎっているが、かなり不安定な結果だったのだ。それを人間は「かわいい」と言いながら笑ったりするが、猫のほうはそんな外野の感想を意に介することなく、ただ己の意欲をみなぎらせ、身体的な条件が整うのを待つのである。
そのためなのかなんなのか、思い通りの動作が出来るようになったときの態度は実に自然だ。自然な誇りに満ちている感じがする。ときに人間がやらかしちゃうような、「できた」にも関わらず無駄な謙遜をして自分を低くみせることで他者から自分を保護しようとしたり(「保護」に留まればいいんだけれど、自分で自分の態度に引っかかっていって、本当に「ダメな人間」と思い込むようになると、辛いんだよね)、苦労の代償を他者の賞賛や“特別扱い”から回収しようとするかのような表現をすることなく、ただ、己の能力を愛で、楽しんでいる。それは、それを眺める人間にとってもなんだか嬉しく、感心してしまう光景なのである。

奏を含めた猫たちのことを通して、人間と猫との関わり方を考える時間がしばしばあった。とはいえ、猫にインタビューを取ったわけではないから猫と人間の並列で対等な考えとはいえない。あくまで人間の側から猫をどう思い、どう扱うかの「幅」についてである。
なぜ人間は猫を含め、他の種の生き物と暮らす(飼う・買う)ことを欲するのか、とか、猫を好きな人間と猫を嫌い人間の関係や自由について、とか。猫が人間の「役に立つ」とか、人間が猫の「役に立つ」とかって、本質的にはどういうことなんだろう、とか。そんな中でいわゆる保護活動、法的・一般的な意味合いの所有(「誰の猫」)の意味に囚われず、猫の生、猫と人間の関係をサポートする人たちもお会いした。その中にもいろんな想いを抱いた人たちはいるが、けして偽善的でなく、押し付けず、緩やかな橋渡をすることに根気と努力を惜しまない人たちもたくさんいらして、なんだか安心できて心強いような気がした。
私、多分普段「極端な人間」を見すぎているんだな。だから、普通に素晴らしい生き物(人間も猫も)との出会いが妙に新鮮なのだ。
特殊性や特徴だけ見ていると、何も見えなくなる。触れても、毒されないようにしないとね、と思うのである。
最近特に。

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