えこひいき日記

2012年8月16日のえこひいき日記

2012.08.16

昨日は終戦記念日で、本日は五山のお送り日である。
8月7日は広島に原爆が投下された日。こうした日には哀悼の意をこめてろうそくに火を灯すこともあるのだが、この日は父の命日にもなってしまった。

この1年は、父にとっても、家族にとっても、濁流の中を泳ぎ続けるような日々だった。
息切れ等の症状が顕著になってきたのがちょうど一年くらい前だった。当初は心臓の疾患と判断され、治療が進められていた。しかし薬の量が増えるばかりで症状は改善しない。薬の副作用なのか、父は食事もおいしく感じられなくなり(何もかも甘く感じるのだそうだ)、このままでは治療を続ける意欲まで失われてしまいそうなので、セカンドオピニオンをとることを進めた。幸い父はそれを了承してくれて、別の病院での綿密な監査が始まった。仮説を立てては、端からその病気である可能性をつぶしていくような検査だった。その結果、父の病気は肺動脈高血圧症である可能性が高いことがわかった。難病指定されている症例数の少ない病である。
父が自宅で倒れたのは今年の1月だった。体力を温存させるために意図的に意識レベルを落とす処置の後、父は意識を取り戻した。
意識を取り戻した父は、意欲と、焦りと、不安と、希望との間で、見たこともないくらいアグレッシヴになっていた。とにかく出来ることを出来るうちに全部やっておこうという気持ちと、そうであるだけに「自分でやる!」ことにこだわって体調に触るというのに他者に手伝わせようとしないところと、裏腹に「どうしてわかってくれないんだ!私はこうして欲しいんだよ」という気持ちを医療者や家族に向けるようになった。父は、普段は温厚な人間である。自分から何かを相手に要求するよりは、先に相手の立場を理解しようとするような人だった。相手の話を全部聞いてから、意見や説得をするような人だった。それだけに病院の面会時間を完全に無視して私に話を続ける父の姿は意外でもあり、同時に納得できるものであった。感情的につらい面もあったが、ほっとしたといってもいい。
その後父は退院したが、自宅では体調を維持するのが難しかった。父は既に酸素吸入器無しでは通常の行動が出来なくなっていたし、典型的な日本家屋で長い廊下で各部屋がつながれた段差だらけの自宅の構造は、もはや過酷だったのだと思う。急遽電動ベッドや身の回りのモノをそろえたが、結局あまり使われることはなかった。父はその後入院し、また退院して、入院したからだ。
父に余命宣告が下ったのは7月初旬だった。血中の酸素飽和度の低下に加えて貧血症状が父を悩ませていた。貧血の原因は骨髄異形成症候群であることがわかった。難病のダブルパンチである。骨髄移植は法的に認可される年齢を過ぎていること、加えて父の遺伝子タイプからして、移植をしても治癒が難しいとの説明を受けた。薬も、無くはないが、リスクがとても高く医師も勧められない、とのこと。家族で話し合った結果、特に新しい治療は加えないことにした。驚くほどあっさり、落ち着いた感じで、判断を下した。

私が事務所の移転を急遽決意したのは宣告の翌日だった。
それより以前から「もしもいい物件があったら(仕切りの無いワンフロアの部屋希望)」と不動産屋さんに声をかけてはいたものの、なかなか心が動かなかった。立地的に今の場所は便利だし、愛着もあった。しかしこれから先も続く病院と実家と仕事場の往復を考えると、移転がベターだと判断した。あと数年とはいえ、最後まで父には生きていて欲しかったのだ。その先にあるのが近々の死だと知っていたとしても、なるべく最後まで無理なく楽しく生きてみてもらおう、そのために、私も無理しちゃいけない、という判断だった。

いや、「無理しちゃいけない」とかいっても、事務所の移転なのだから、負担やある程度の無理が不可避であるのは承知していた。それまでの日々の中でも、思うように仕事が出来ない日が続いていたし、病院からの急な呼び出しでレッスンをキャンセルしてもらうことも増えていた。ストレスから眩暈や吐き気が止まらなくなったこともあったし、夜中に頭痛で目を覚ますようになり私自身が脳梗塞の疑いをかけられたこともあった(もちろん、ただの「強度のストレス」だったけど)。このように事態に振り回されること、思い通りに「普通の」生活が送れないことに関しては、家族に怒りさえ覚えるほどイライラする日もあったし、キャンセル等で迷惑をかけたクライアントさんのことを考えると心苦しかった。加えてここにきて、この急な移転のアナウンスは彼らにとってもでも驚きと負担になるかもしれないとも考えた。
でも、満場一致の正解はない。どの道を選んでも、それが正しくても、苦しみが混じることは否めない。だから、やってみよう、と思った。

父が病室内で心停止を起こしたのは7月の終わりだった。普通に、朝のトイレに立ち上がり、ベッドに帰ろうとして具合が悪くなり、倒れたそうだ。私が病院に駆けつけたときは蘇生措置の最中だった。父はCCU(呼吸器心臓疾患専門の集中治療室)に移された。そこで父のからだに触れたときの感覚は一生忘れないだろう。残酷な言い方だが、父が遠ざかったのがわかった。この皮膚や筋肉や骨格は、父の意志を反映するものではなく、もはや中枢神経を包む「殻」のようなものになってしまったのだ、と感じだ。父は戻ってはこないだろう。でも、ここにいる。いてほしい、と思った。それが「よい」願いなのか「わるい」願いなのかわからない。父にとって望むことなのか、そうでないのかもわからない。

普段の面会よりもCCUの面会時間は限られていたが、私はほぼ毎日顔を出した。1週間ほど経ったある日、私が面会を終えて帰宅すると、すぐに電話が鳴った。父の容態が急変したのだ。以前も使用したことがある薬にショック症状を示したらしい。父の容態は危ぶまれたが、なんとか低く持ちこたえてくれた。沖に流されそうな船をなんとか係留しているような感じ。
そこから病院に泊まったり、長く居る日々が始まった。私は院内のコーヒーベンダーに詳しくなったし、食事もほとんど院内で取っていたし、院内のソファがすわり心地の違いとか、売店に効率よく行く方法とか、詳しくなった。とはいえ、振り返ってみればそれは3、4日のことだった。

さすがに家族みんな疲れ果てて、今日はちょっと自宅で眠りましょう、と病院を後にした夜、私はすごく「お願いだから電話が鳴らないでほしいな」と思っていた。でも、明け方電話が鳴った。
病院に着いたとき、父はもう安らかだった。安らかな顔に、どこか救われる思いがし、同時にどうしていいのかわからないくらい悲しかった。

葬儀では自分でもびっくりするくらい泣いた。それまでにもけっこう泣いていたし、気持ちはもう単純に「悲しい」というようなものではないのに、涙は流れる。まだ濁流だったのかもしれない。泣くと疲れる。そして脱水になるのか、喉も渇く。夏だからなのだろうか。そしてみんな信じられないくらい食べた。
それでも(だから?)周囲からは私は落ち着いて気丈に見えるらしい。不思議なものである。多分、私が「そうであってほしいこと」と「じっさいはどうなのか」という事の相違に向き合うのに、少し慣れているからかもしれない。仕事柄。あるいはこれを「仕事」に出来る性格を備えているという意味で。でもそれはつらさや悲しさが無いというのではない。でも、悲しいからずっとそれだけ、というのでもない。その混ざり具合が「冷静」や「気丈」にみえるのだろうか。

遺骨になった父の骨格はとても立派で、なぜか私はやたらと嬉しかった。写メを撮りたかったのだが、親族に全力で止められた。

不思議なもので、父の死に対して喪失感は無い。ひょっとしたらまだ実感が湧かなくて「この感じ」と「喪失感」が結びついていないだけなのかもしれない。でも、私の中の父という存在が損なわれた感はないのだ。
そうでありながら、今もって「なんでやねん」と思っている部分もある。なぜ父が「死んでいる」のか、わけがわからない。英語の、過去完了というやつだ。あの日から、父は死に続けています、って、なんやねん、と思う。
同時に、もう携帯電話を枕元においておびえながら眠らなくていい、ということに安堵を覚えていたりもする。もう苦しそうな父を見なくていいことにも。それは「死んでよかった」という意味ではない。でも、この感覚は安堵だ。とても寂しい、苦い安堵だけれど。

そういえば父はオリンピックを楽しみしていた。番組表が載っている雑誌が欲しいといわれ、面会時間ギリギリにコンビニに走ったこともあった。骨格の立派さが示すように、父はスポーツ(テニスとかゴルフ。ゴルフでアルバトロスを成し遂げたのが生涯の自慢だった)が好きだったが、「からだを動かすのが好き」というよりは「チャレンジ」が好きだったのかもしれない、と思う。オリンピックも、結果やメダルにももちろん関心したが、細かいエピソードやドラマをよく記憶していた。結果的栄光より、栄光への道筋、「成し遂げる」とか「あきらめない」が好きだったのかもしれない。

治療方法が確立されていない病を2つも得たときも、父は一言も絶望的な言葉を言わなかった。「自分の人生には他人とは違う珍しいことが多かった。これもそういうことなのかもしれない。だからあきらめない」と公言していた。それは「本音」でもあり、よろける自分を支える「つっかえ棒」だったのだと思う。私はそれが頼もしくもあり、辛くもあった。私が病室を去るとき、時々背後で父の呼吸が荒くなるのを感じることがあった。時には苦しさや不安から夜慟哭するのを家族も聞いている。私が居るときは「元気を出している」のだと思う。しんどいところをなるべく見せないようにしていたのだと思う。それは、隠す、というよりも、そうでありたかったし、永続的ではないにせよ、本当にそうだったのだと思う。だから私も振り返って「大丈夫?」と駆け寄ることはしなかった。でも辛かった。

父が亡くなった今、あのときの辛かった部分ではなく、頼もしかった部分をたくさんめに思い出す。同じお話でもクローズアップする部分が違う。
もしかしたら、それがトランジションしていく、ということなのかもしれない。父が「死んでいる」ということなのかもしれない、とも思う。

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