えこひいき日記

2012年10月22日のえこひいき日記

2012.10.22

新しい事務所に引っ越してから暫し経った。片付け物や清算などが一応終わったのは今日だったので、私にとっては「ずっと引越しがらみの事・続く」だったのだが、皆様には挨拶も報告もせず、申し訳ないことでありました。

事務所の引越し、また父のことに関しては、多くの方にご迷惑をかけたにもかかわらず、お祝いやお悔やみ、あるいはご理解や応援の言葉やお品をいただき、ありがとうございました。また時期的に慶事・忌事あい重なる具合になったので「どっちをどうしていいのかわらなくて、すみません」と率直な気持ちを表現してくださったクライアントさんもおられ、そうしたメッセージの一つ一つに、本当に感謝しています。新しい場所で、希望を新たに仕事をしていく意欲を支えていただきました。ありがとうございます。

いやー、それにしても引越しって、いろんなこと起こるねー。
事務所の引越しは、去年行った自宅の引越しよりも楽だったものの(物の量は多いが、種類は少ないからだと思う)、新たに購入した鏡付きの家具が搬送時に割れていることが見つかりレッスン開始日までに揃うかはらはらしたり(各局、ぎりぎりだったが何とかなった!)、某N○○がネット回線だけ移転して電話回線の移転をしてくれていなくて、最も電話で案内が必要そうな時期に1週間電話に不自由したり、何かと何かが起こるものなのであった。
最終的に前の事務所を引き払うのは9月末になっていた。9月から新しい場所で仕事開始で、そこは8月から契約しているし、家賃のことを考えると不経済でもあるのだが、とにかくいろんなことが重なったので「時間稼ぎ」が必要だったのである。選ぶのに迷うものや決めにくいことを決めるための時間と体力を、新旧の事務所一か月分の家賃で「買う」ことにしたのだ。
そんなわけで、新しい場所にはどうだろう、という家具や、分類に迷った書類の類はごっそり旧事務所に保留していた。それらをより分けて、最終的に、新しい事務所に運び込むものはレンタカーで運び、要らなくなった家具の処分を2つの廃品回収業者と市の大型ゴミ回収に依頼し、不要食器はそれ専門のリサイクル会社に依頼した。なんだか勉強になった。

最終的にはなーんにもなくなった旧事務所は、もう知らない場所のように思えた。それは「正しいこと」だと思う。変な感じはするか、がらんとした「ここ」に感傷的になるのも、なんか違うし。物が何も無くなった部屋のほうがなぜか以前より狭く感じられた。声がやたら響くのが印象的だった。
だから「さよなら」が言えます。さようなら、そして、これまでありがとうございました。

新しい事務所の間取りはほぼ正方形。ただし入り口からレッスン室までの距離は以前の場所よりコンパクト。そのためか「以前より広い!」という方と「あらこじんまり」という方と、見事に別れる。とても面白い。

人が「それ」の何を見て、何ととらえるかは実にバラエティー豊かだ。そしてどちらも嘘ではなく「ほんとう」なのである。そしてその「ほんとう」にはそのひとなりの理由があって、理由がわかると自分の「ほんとう」が「ひとつだけ」とは限らないことがわかる。人がこの部屋を「広い」と感じる理由も「狭い」と感じる理由も、部屋にではなくて、その人の中にある。

父のことにしてもそうだ。父の死後ぽろぽろ出てくるいろんなことに「もう死んでるけど、コロス!」と思うこともあれば、改めて感謝したり、微笑ましく思ったりすることもある。そのどれもが私にとって「父」であり、個人的な好みはあるものの、その中のどれかだけを「ほんとう」と思う趣味が自分にはないことに改めて気付く。
危機とかきわきわに立たされて思い知るのは、自分がどんな人間かということだ。私はどうしようもなく、こんな人間なんだ、ということだ。

危機や不幸を得ることを自ら望む人はほとんどいない。でも、それに出くわさないでいられる人生も、きっとない。祈っても怖がっても、誰かに甘えても、きっと完全回避などできない。
だから、向き合うしかないんだな、と思う。なるべく目をそらさず見ようと思っている。自分が望んでいない分、こんな機会、二度とないから。もしかしたら私は危機や不幸ですら「人間に起こる出来事」として「興味」があるのかもしれない。あるいは興味を持つことで、痛みを軽減しようとしているのかもしれない。でも同時に「これっきりで勘弁」「二度とないこと」にしたいとも思っている。本当に。だって、心底嫌だもん。

そんな私がどんな人間にみえるかは、見る人によって異なる。というか、人が真に何かを「見る」ということがそうそう容易ではないのだ、と思うのだ。「それ」を「見て」いるつもりで、「それから連想される既存のモノ」「自分のアタマの中にあったモノ」しか見てないことが多い。さらに、そこに不安が伴うと、人は自分が最も恐れるモノを「それ」に重ねてしまうらしい。

それではないものを「それ」だといわれるのは気持ちが悪い。私じゃないものを「私」だといわれるのは悲しい。でも、それを言う人たちがそう感じるには理由がある。その人なりの背景がある。そのことはわかるから、相手の示す「私」だけが私の「ほんとう」の姿じゃないのだ、と、私が思えるのかもしれない。世に言う「理解」の何割かは実は「誤解」だ。でも誤解の中にも正解の種はある。私の中に、相手からそう見える部分はある。「ほんとう」でないかわりに「嘘」でもない。そして、それが全部じゃない。そのことを自分がちゃんと知っているかどうかが、自分で自分を支える上で重要なのかもしれない。他人の言う「それ」で私が溺死しないために。
その一方で、「そんなふうに他人を理解してどうなる?」と思っている自分もいる。ものが見えないやつなんか、自分も含めて、ばーか、でいいじゃねえか。勝手な思い込みを押し付けられたなら、躊躇も手加減もなく怒ればいい、と思ったりする。私にとって大事なのは、何も分かっていない「他人」なんかじゃない。でも他人に「怒る」のも疲れるんだよね。どうして人に対してはこんなにたくさんの感情や思念が動くのだろう。どうして空を見たり海を見たりするみたいに人を見れないんだろう。

そんなわけで、私は今もって自分が人間を好きなのか嫌いなのかわからない。でも好きな人間はいるし、嫌いな人間もいる。その好き・嫌いにしても、きっと私に見えるその人間の「一部の真実」にすぎない。そんなこと考える自分が自分でめんどくさい。たぶん、こんなことをこれからも考えていくんだろうなぁ。

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