えこひいき日記

2013年1月10日のえこひいき日記

2013.01.10

お世話になっていた会計士の先生が亡くなられた。ご高齢ではあったが、突然のことだった。訃報を受ける数日前まで普通に仕事をしておられた。つまり、生涯現役でおられたということになる。
元マルサだった先生の会計監査はものすごく細かかった。確定申告の時期には長い長い質問と訂正箇所を指摘するファックスが送られてくるのが常で、その時期は毎朝どきどきしながらファックス機を覗いたものだった。山のようなファックスが届いていないことを祈りつつ。しかし仕事の姿勢は常にニュートラルで、私のような会計にまったく疎い、仕事を始めた当初は領収証を取っておく必要性や、何処の欄に何を記入すればいいのか全くわかっていなかった私の経理業務を辛抱強く導いてくださった。
恩人を一人失った。心からご冥福を祈るとともに、改めて感謝したい。

話は変わるが、スポーツ強豪校の部長を務めていた生徒が自殺したというニュースがあった。クラブ顧問からの体罰は常態化したものであったという。
体罰。懲罰に用いられるのは「からだ」だが、ターゲットは「からだ」じゃない。「からだ」だって痛むが、本当に傷つくのは「からだ」じゃない。「からだ」じゃない相手の何かを「からだ」を…「からだ」の一部である感覚の「痛み」を…通して自分の支配下に置こうとする行為、体罰。本質的には、「しつけ」と称して「虐待」を行うのと変わりはない。
そうした行為が、スポーツが好きで、毎日毎日「からだ」を使って、大事に育てて技を磨いき積み上げて栄光を目指す人たちの間で、常態化出来る、ということが、なんだか皮肉を通り越して不思議な気すらする。彼らにとって「からだ」とはなんなのだろう。その時、誰のための、何なのだろう。

とはいえ、「からだ」はいつでも「自分のもの」と言い切れるか、慈しめるかというと、そうではない。
自分の「からだ」を犠牲にしても何かを果たしたい…という思いは誰しもの中に生じうる。「からだ」より何かが大事に思える機会は、簡単に、日常的にある。
例えば、誰かに誉められたい、認められたい、力になりたい、という気持ちが強い人は、時に「誉めてほしい人」のために「からだ」を使うことが「ふつう」で、自分のためは使わない。習慣を通り越して価値観にまでなっていると、自分を犠牲にすることこそ善であり、自分のために使うことなど身勝手な悪だ、と思いこんでいたりもする。「誉められたい」が「怒られたくない」「嫌われたくない」という方向になったとしても基本的には同じで、「怒られたくない人」あるいは「恐怖感」のために「からだ」を使う。行動の主体は自分自身にない。たとえ結果を得られたとしても達成感はなく、ただ恐怖を回避できた安堵感がかすかにあるだけかもいしれない。
そういうと相当「愚か」に聞こえるかもしれないが、切ないことに、100%愚かだけでもない。
例えば、一所懸命介護をしたり、子育てをしていた人が子供が自立した途端、「何をしていいのかわからない」という状態になることがある。「そんな気持ちになる」という軽いニュアンスの場合は「慣れない」とか「寂しい」という意味合いなのだが、中には「お腹がすく感覚がわからない」「いつ眠っていいのかわからない」というふうに、生理的な感覚を含めて自分を見失ってしまう、いや、正確にいうと、見失っていたことに突然気がつく、ことがある。それまで食事や睡眠を含めた生活が、自分のタイミングではなく「誰か」のタイミングで行われていたので、それが自分にとって本来どんな感覚なのか忘れてしまい、どういう感覚の時に何をしたらいいのか分からなくなってしまうのだ。
レッスンにもそういう方がしばしば来るが、そういう方に必要なのは「こんな感覚になりますか」「こんな感覚はわかりますか」「それが眠気ですよ」というふうに、感覚を自分モードに再チューニングすることである。行為そのものは不可能でなくても、行為に伴う感覚や主体性が「自分」にないと、人生は狂ってしまう。

誰かや何かのためにその身をささげることは美談にもなりうる。狭義の「自分」を捨てることで新しい「自分」の能力にその人自身が出会うこともある。その一方で、誰かや何かに自分の感覚や価値観を乗っ取られ、人生そのものを破壊する愚かにもなりうる。容易に何のために生きているのか分からなくなれると思う。
それを分けるのはとてもデリケートなバランスだ。「こうしておけばいい」というような自動化は出来ない。常に「自分」という状況に興味を持ち、「違うな」と思ったらバランスを変える、また「違うな」と思ったら変える、見逃さない、心で都合のいい嘘をつかない、という、とても細やかなフットワークの軽さが必要なのだ。
それが真の「恒常性」なのである。「強さ」や「良さ」を保ち続けたいなら、常にバランスを取って変わり続けるしかない。めんどくさくても!

チームのためのプレイと、自分の能力を発揮しきること、周囲との調和と自分の充実感、全体がまとまるような緊張感と、のびのびと実力が発揮できるようなリラックス感…どちらも大事なことだ。そのどちらもが並び立つこともあるが、時には対立してしまうこともあると思う。特に「よくあらねば」と焦ってしまったり、バランスを探って調整しているときには、その加減の難しさが自分の中の対立感情をあおって「もう、どっちかだけだったらいいのに」と思ってしまうこともあるかもしれない。力で何かを制圧してしまう方が手っ取り早い、と思ってしまうかもしれない。
でも、そこには人間の輝きがない。
全然、生き生きしていない。

もしもチームや団体と自分の価値観がずれて、死にたいような気持ちになったときには、どうか死なないでほしいと思う。そっちの方がよっぽど「死ぬより怖い」と思うかもしれないが、勇気を持ってその群れから離脱してほしい。他にも生きる場所はある。生きられる場所はある。誰かの価値観なんかに、こんな形で殺されないでほしい。

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