えこひいき日記

2013年1月30日のえこひいき日記

2013.01.30

先日祖母が高熱で立てなくなり、救急車で病院に搬送されるというがあった。幸い数日で退院したが、去年のこのころに父も自宅で倒れて救急搬送されたので、あまりいい気分ではない。理性で「別のこと」だとわかっていても、胸のあたりに石を積まれたような感覚になる。こういうこと、出来れば丸ごとバスしたい。無理だって知っているけれども。
その頃、
世間ではアルジェリアで日本人が武装集団に拉致されたという報道が駆け巡っていた。その後、10人もの人たちが犠牲になったことが報じられた。思わずテレビの前で泣いてしまった。彼らと会ったことがあるとか、利害関係があるとかいう間柄が在るわけではない。でも、こんなことはすごく辛い。
その頃、
私のパソコンにはパニックを起こしたクライアントからのメールが届いていた。彼らとは、アルジェリアの日本人とは異なり、レッスンを通して関係がある間柄だが、それはそれでなんというか、辛い。パニック中の彼らへのメールでのやり取りは時にとてもハードで、疲れる。実際のレッスンより疲れることもある。多分、顔を合わせての会話と違い、センテンスごとに相手からの反応があるわけではないので、書き手の考えが煮詰まりやすいのだろう。しかも、ネガティブな連想に不安がまぶされた方向で。
パニックを起こしている相手はこちらがどういう状況であるかは、考慮してくれない。多分、自分の状況すら考慮していないだろう。例えば、「疲れているな」とか「最近のこれがきつかったから」とかわかってくれるとパニックにはならないのだが、そのときは自分の「苦しさ」しか見えていない。正直、とってもやっかいだが、彼らを憎んでいるわけではない。何とか幸せになって欲しいと思っている。でもその「幸せ」は単にその場でパニックをなだめる間に合わせの慰めのことを言っているんじゃない。

一日に感じる「こと」は一個だけとは限らない。辛いことでも、嬉しいことでも、どんなに印象深いことに出会ったとしても、それだけ感じているわけじゃないし、ひとつのことだけしているわけじゃない。あたりまえだけど。
例えば出来れば丸ごとパスしたいことが起こったときに、その出来事を丸ごと「なかったこと」「認識しないこと」にする人もいることは、仕事を通じて知っている。「知らないほうがいいことがある」という見解の人も知っている。
でも私は「ほんとうのこと」が知りたい。それは無謀なのだろうか。傲慢なのだろうか。「ほんとうのこと」は時に良し悪しすら判じがたくて、「判断」という観点からいえばとてもとらえがたく、混乱しているとすら感じることがある。「ほんとうのこと」なんて、とても手に負えないんじゃないか、私はつぶされる、と思うこともある。
そんな手ごわいモノを、どうして私は知りたいのだろう。自分でもどうしてだかわからない。

私の思う「ほんとうのこと」。例えば、していると思っていることと、実際にしていることが見えること。
それは例えばこんなこと。
私のところにレッスンに来てくれている演劇関係者が、一年間演劇未経験者(あるいは経験の浅い俳優)を指導することになった。最後に数日間公演を行い人前で発表をする。どの世界でもそうだろうが、練習の中で課題を行うのと、本番や本番のための練習は、違う。もちろん、つながってもいるのだが、そのつながりが、本番の練習に入った途端見失われてしまうことが多々ある。「よぉし、やるぞ」みたいなやる気が先行して序盤から気力体力全開で挑み(この時点でたいてい「基本」が飛ぶ)、疲れ、その頃に少し内容が自分の中に浸透するようになって、「これでいいのか」と不安になり、「自分なんてダメだ、才能ない」と落ち込み、開き直って何とか本番・・・というのはもはや舞台関係者の誰もが一度ならず体験するだろう「パターン」といっていい。ともあれ、これもまたそうした試練を潜り抜けての舞台づくり。最終的に「面白かった」「笑える」と好評を得たのだが、指導の過程で「役に立った」と指導者が言ってくれたのが、ここのレッスンでやっている「からだの見方」や「認識の読み取り」だったという。

例えば、「上を見ながらせりふを言う」というシーンで、俳優がいきなり白目をむいたことがあったという。見ているものとしては、まあ驚くだろうし、中には「ふざけてるのか」「何をやっているんだ」と、一気に俳優の「態度」や「技量」の問題と結論付ける指導者もいるかもしれない。しかしこの指導者は「あ、首と目がこんがらがってる」と判断し、「目じゃなくて、首動かして、首」と指示できたという。すると「あ」と言って、俳優も動きを変える。
眼だけ上を向いても首を動かしても本人には「上」は見えるので、自分がどちらのやり方で上を見たのか認識していないことはままある。それが癖になっていたりすると、まずとっさにほかの動きは出てこない。可動域や可能性の問題として「できない」のではなく、「している」「していない」の認識がないのだ。でも認識がなければ修正は難しいし、他の動きの可能性を取り出すことも難しい。この種のことで「できない」「才能がない」と思いこむ人間は意外と多い。指導者もまた、自分が相手の何を見てどう思っているのかを認識しなければ、「使えないやつ」「やる気がない」と相手を切り捨てるにとどまるか、「なんとかして動けるようにやろう」という思いから「暴力」で相手を思い通りにするという策に依存して抜け出せなくなるかもしれない。それは昨今、報道されている出来事と照らし合わせても、想像に難くないことだろう。

善意が悪策と手を組んでしまう瞬間を、いい加減飽きるほど見てきた。「わるいこと」をしようとして「わるくある」人に、私はまだ会ったことがない。むしろ「善」や「良」にこだわる人ほど、それが明確に「よい」と判別できない状態に音をあげて、結果的に「悪」に手を伸ばすのを、私は飽きるほど見てしまった。
起こったコトをみんな肯定して受け止められるほどの度量は私にはない。でも、「善し悪し」を判じ急がなければ、受け止めやすくなることは意外とあると思う。判じ急がなければ、視野いっぱいが「悪」や「痛み」に覆われているのではなく、いいことの中にある悪いこと、悪いことの中にある良いこと、あるいは悪さとは別にある良さが広い視野の中に見えてくるように思う。
そうであればいいなと思う。

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