えこひいき日記

2013年2月13日のえこひいき日記

2013.02.13

昨年はアタマを休めるためにテレビを見流す、ということをよくやった。何か情報を得るためにテレビを見ているというよりも、内側のざわざわを収めるためにテレビをつけてる感じだ。
とはいえ、普段テレビを見ない時間にテレビを見ていると得るものもある。例えば『カリスマ・ドッグ・トレーナー』という番組はすごく気に入った。BSのFOXチャンネルで放送中の、題名どおり、犬についての番組なのだがとても犬だけのこととは思えない。

昨年、実家の柴犬が体調を崩したことがあった。私に「どうにかしてやってくれ」と連絡が来たときには、痩せて首から尻尾までがばさばさに脱毛してしまっていた。ご飯もあまり食べないという。医者に連れて行くのも困難な状態だった。
実家の人々の犬との付き合い方は、なんというか極めて旧式で、「どーぶつなんだから、基本元気でしょ」という大雑把な「信頼」に基づいたものであった。そういう「信頼」って無事なときにだけ成立するもので、ある次元では「無関心」と同義語なんだけどさ。それでも現に今まで犬は元気だったのだから、まあ、うちはラッキーだったと思う。
「なんとかして」と言われたものの、私は犬に詳しくない。しかも、アレルギーがある。だから犬と遊ぶのは好きだが実は辛かったりもする。とはいえ、犬の命がかかっていることでもあるので、抗アレルギー薬を使いながら実家に通う日々が始まった。空気清浄機も実家にプレゼント。これで犬のそばに居るのがずいぶん楽になった。当時は父の病院にも行き来していたから、今から考えればよくあんなことができたなと思う。

そのときにすごくタイムリーで参考になったのが『カリスマ・ドッグ・トレーナー』だった。
トレーナーのアーサー・ミラン氏はアメリカでは有名な人だ。「犬の言葉がわかる人」として、犬にまつわる飼い主の悩みをばしばし解決していく。
彼はよく「犬にはリハビリを、飼い主には意識改革を」と言う。「問題」は犬だけにあるのではない。むしろ多くのことが人間にある問題なのだ。

犬に対して人間は常に「パック・リーダー」、つまり「群れの長」であらねばならない、と彼はいう。それは犬の生活にとっては「愛情」とともに大事なことで、「秩序」を欠いた「愛情」だけの接し方はいかに犬にとってわかりにくく負担か、ということを言う。例えば、不幸な過去を持った犬を引き取った飼い主がこれまでのことを不憫に思って、つい厳しいしつけをスキップし、自分が不憫に思ったときにおやつなどを与えたりしていた。すると犬は次々と何かを要求するようになり、満たされないと大暴れするようになってしまった。ミラン氏によればそれは「人間のしていることがリーダーとしての秩序を欠いた、わかりにくい行為」なのである。つまり、人間が今目の前で起こっている犬に行動に反応するのではなく、犬の過去に反応して行動する(不憫→おやつとか)から、犬は混乱するのだ、と。「犬は今を生きている」と彼はいう。それに対して「群れの長」である人間もまた「今」を生きなくてはならない。

すごくシンプルなことだが、人間にとっては実に新鮮な体験だったりする。人がいかに「今」以外の時間を生きているか、ということでもあるのだが。

またミラン氏は、犬に対する態度は常に「落ち着いて、毅然として」という。番組の中でもしばしば飼い主に対して「あなたの今の態度は落ち着いてはいますが、毅然としてない」とか「毅然として入るが、落ち着いてはいませんね」と言ったりする。例えば、人に対して吠え掛かったりする癖のある犬を持つ飼い主に対して「あなたはいつまた犬が他人に吠え掛かるかと、心配していますね。その不安に反応して、犬はあなたの代わりに強くなろうとして、吠えているんです」などとアドバイスしたりする。とても犬の話だけとは思えない。人間にも、きっと言えることだ。

ミラン氏を真似て、犬を見てみる。実家の犬が体調を崩した理由は、おそらく父の入院だ。それに伴う人間の生活パターンの変化。散歩のタイミングの規則は崩れ、散歩に行く余力も無い日には庭に放される。庭があるだけましともいえるが、人間が忙しいとご飯もただ出すだけで、彼と関わる時間が少なくなっている。でも人間は忙しすぎてそのことにも無自覚だったりする。犬に対して「(父が入院していても私たちが)リーダーである」という態度も取れていなかった。犬にしていれば、家にいながら捨てられたような気分だっただろう。
私は出来るだけ実家に通い、散歩に付き合った。ご飯も、皮膚や毛の回復に良い物を注文しサプリも加えた。マッサージやブラッシングも根気よくやってみた。母にも「かまってあげられないのがかわいそうだから」という理由でおやつをあげたり、やたらご飯を大盛りにしないよう、伝えた。彼にとってご飯は愛情の代わりにはならない。ご飯はご飯なのだ。
また、彼にも「他の犬に吠え掛かる」「宅配トラックに吠え掛かる」という癖があった。こうした問題に対しても、これまで人間はただ「トラブルを避ける」(恐る恐る散歩に行く感じになり、吠え出したらひたすらおろおろ抑える)ということしかしてこなかった。私にとってもチャレンジだったが、「落ち着いて、毅然として」を試した。まず、私自身がほえる彼を恐れないこと。他の犬とすれ違うときは毅然として立ち止まるだけ。
効果は抜群だった。他の犬が近づくと今でも彼はぴくっと反応するが、そのまま散歩を続けることが出来るようになった。
そうして彼は今ではすっかり立派な体格を取り戻し、毛もつやつやになった。

「リーダー」というと、トップに立ちたがる人、専制君主的に命令を下す人物、偉そう、というイメージを持つかもしれない。しかしリーダーとは「そこに立って、見渡すことが出来る人」のことかもしれない、と犬を通して思った。「先入観を持たず、関心を持てる人」というか。同情も支配も、犬を救うことはできない。

私は基本「猫」な人間だから、誰かに対してリーダーシップをとることにもとられることにも大きな関心は無い。でも自分に対しては「リーダー」でありたいと思う。「先入観を持たず、関心を持てる」人でありたい。私は私の人生に対して先入観を持たず、関心を持ち続けることができるだろうか。

私が犬に対してよい「パック・リーダー」かはわからない。完璧なリーダーというわけではないと思う。だって、私が彼の散歩に行くときには母よりも長く散歩する。彼が行きたいルートを歩かせる。それはランダムではなく、決まっているコースなんだが。そこに「かわいそうだから」という気持ちが微塵も無いかというと、自信がない。でも犬が元気で幸せそうなのはいい。ここで問題なのは「かわいそう」と思うことがいいのかわるいのかではなく、私が抱いた感情が私の中だけの取引ではなく、彼にも通じるハッピーになるための行為になっているか、ということだ。彼が元気でハッピーそうなら、いい。

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