えこひいき日記

2013年11月27日のえこひいき日記

2013.11.27

怪我をした私を「アレクサンダー・テクニックの先生のくせに」という人たちがいる。
怪我をしていてもかなり普通に動けている私を見て「アレクサンダー・テクニックの先生だから」という人たちがいる。
たった一言で、「アレクサンダー・テクニックの先生」。そして「くせに」と「だから」。わかるような気もする一方で、よくわからない言葉。
この言葉の皮の下には本当は何があるのだろう。

イメージとリアルの齟齬の話。

これは別に「私はこんな不快(あるいは不可解)な思いをしました」ということを話したいわけではない(何も感じないわけじゃないが、ここではそれが重要なわけではない)。
今回の私の場合は、例えば「アレクサンダー・テクニックの先生」という言葉だったわけだが、こうしたラべリングは世にあふれている。「男のくせに」「女のくせに」「父親のくせに」「母親のくせに」「子供のくせに」「学生なのに」「大人だから」「何歳だから」「何歳なのに」…枚挙のいとまがない。あらゆる職業名や名詞を入れることが出来る。でもそれは何なのか。そこに何が在って、何が無いのか。

最近ネットニュースで、ある医療物の漫画を描いた作者が脳梗塞で入院したことを受けて「医療関係の漫画を描いているくせに」という書き込みをした人がいた、というのを読んだ。
私の感想は「???」だった。なぜ、医療系の漫画を描いた漫画家が「病気になる」ことが「くせに」なのか??漫画家の職業や、彼が選んだ作品のテーマが、どうして彼の健康状態と直接的に関係すると思えるのだろう?医療関係の知識を持つものは病気にならないとでも思っているんだろうか?確かに知識が乏しい人よりはその知識を役立てて自分の危機を救える可能性は高いかと思う。しかし「医療知識がある」は「病気にならない」という「意味」ではない。
でも、それがわからない人間がいるってことなのか??
あるいは、その人にとって「医療」はそこまで「神」なのか??
その繋がりで、「医療」という「神」の描き手である「アイドル(漫画家)」の「転落」を、過度な「落胆」でもって反応してしまうという可能性もあるかな?ものすごく大事にしていた何かがちょっと傷ついたり泥がついたりしただけで、もう何もかもダメになった気がして、一転その手でそれを叩きつけて壊してしまいたくなるように。
あるいは、この漫画家を・・・いや、正確にはこの漫画家さん個人ですらないかもしれない。誰か、たまたま目に付いた、自分より「上」「注目されている」「恵まれている」と感じられる、自分のコンプレックスを刺激するものを持つ人やり玉に挙げて傷つけたい、傷つけたり攻撃することで見返した気分になりたい、暫時自分の痛みやココロのささくれを中和したい(中和できる?)、と思っている人がいる、ということかな。

こうした行為が「いいこと」なのか「わるいこと」なのか、あるいは相手に対して「思いやり」があるとかないとか言う以前に、わかっておいた方がいいと思えることがある。
主観を全く交えずに純粋に相手のことを見ることは本当に難しい。ということ。
100%純粋には、無理かもしれない。特に自分の痛みや悩みでいっぱいの場合は、痛みまみれの主観含有率が高くなる。相手を見ているつもりで、相手を見ている自分を「相手」だと思っていることもよくある。
行為や言葉はどうしようもなくその発信者を映す。だからその言葉の中に、本当に「相手のことについて」「相手のためにだけ」言われた言葉を見つけるのは、難しい。相手のことを言っているようでいて、相手の何かに触発された自分のことしか言っていないことはよくある。そして何に反応したのかは他者からは容易にわからないことも多い。「それ」で「これ」が触発されたのね、と思える事柄もあるが、「それ」で「これ」が触発されるか??というようなことだってある。

そんなこんなで、まるで目の粗いとびとびの連想ゲームをしているように、本来「そこ」では繋がらないはずの言葉や意味があたかも「当然」のごとくに繋がってしまうことがある気がする。そしてそれが「そのまま」にされていることがある。かなり。

それをまた、「不可解」と感じながらも、「いいこと」「わるいこと」と簡単に言えない自分がいる。
生々しく直接的にリアルに触れて潔く享受できるふとっぱらな人間がどのくらいいるのか、私には正直疑問だ。私の仕事とて、認識や概念のピースを用いて「リアル」に迫る側面があると言える一方で、概念で概念を編集し、その人に扱える範囲のリアルに留めて提示している感を否めない。概念という編集作業やクッションが加わらなければ、耐えられない人間もたくさんいる。だから「リアル」だけが「ほんもの」で「よいもの」で、「イメージ」が「にせもの」で「わるもの」とは簡単には言えない。概念やイメージは、リアルを手なずけるための人間の知恵ともいえるから。そうまでして、やっぱりリアルから目を背けては生きることができない人間の姿勢がそこにある気がするから。

だからこそリアルなもの、何か実際に体験できたことは、何時でも、何度でも、触れるたびに新鮮なのかもしれない。もちろんそれに対して感受性を開いていればの話だが。
ちょっとずつしか触れない「それ」に触れる度に、違う面に触れ、あるいは同じ「ところ」のより深くところに触れられた気がする度に、感激する。その新鮮さに感激し、生きていることを感謝し、この経験が与えられたことに感謝したりする。
その一方で・・・少なくとも私の場合・・・何回これやってんだよ、まるごとわかってとっととこの「人生」なんていう双六を上がってしまえよ、という自分が自分の中にいる。いらついているともいえるし、励ましているようでもある。目の前の何かに夢中になることを戒め、目をあげてみろ、「その向こう側」を忘れるな、という「わたし」である。

私の中には何人もの「わたし」がいる。いや、浮世で、例えば「アレクサンダー・テクニックの先生」なんぞやっているのが「わたし」の表面化した一部である、といった方が正しいかもしれない。私は「わたし」の一部の、現れにすぎない。
だから「アレクサンダー・テクニックの先生」でしかない私には出来ることもあれば、出来ないこともたくさんある。逆に、「アレクサンダー・テクニックの先生」じゃない私にできることも、たくさんある。

…という自覚を自分が持っていることに気がついて、改めて新鮮に思っているのはほかならぬ私自身かもしれない。

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