えこひいき日記

2014年3月11日のえこひいき日記

2014.03.11

えー、予定通り、仕事に復帰しております。

退院から仕事復帰までに数日の猶予があったのは、ありがたかった。退院後数日は、普通のことをしてはいちいちばてていたからだ。洗濯機を回しては座りこみ、掃除機をかけては昼寝がしたくなり、みたいな調子。そういう「普通のこと」でさえ、入院中の運動量から考えれば数倍なのだ。仕事に戻れば更に倍率は増す。仕事が始まってから行ったリハビリで、理学療法士さんが私の筋肉を触るなり「うわ、芳野さん、入院中の何倍動いたはります?」と言ったほど。冷静に、10倍以上だと思うもんなー、セーブしたってそうだもんなー。そしてそのことに自分が十分に自覚的ではなかったりする。つい、「今の実際の運動量」よりも「いつもより動いていないこと」の方に気を取られそうになる。気をつけなくては。

以前の「日記」にも書いたが、リハビリにおいては「正しい動かし方」をしても「痛い」。
この「痛い」は「間違っている」とか「動くべきではない」というサインではなく、「正解」にも漏れなくついてくるありがたくない「おまけ」なのである。
だからリハビリにおいて、痛みにフォーカスしすぎてはいけない。痛みを中心にしてはいけない。どうしようもなく感覚の目を引く「痛み」だけど、フォーカスすべきなのはリハビリの目的と私の「からだ」そのものなのである。
そのこともあって、リハビリにおいて大切なのはガッツより観察力だと思う。下手にガッツに頼ると、状況を無視した運動の仕方をしてしまいかねない。身体能力の回復を図るべくリハビリをしているのだから、状況は健常な状態からのパワーアップとは異なる。患部を傷めず回復を図るためにも状況の把握や観察は重要なのだ。だから、努力継続の意思としてのガッツはいいのだが、痛みを無視したり闘ったり、躍起になってメニューをこなすのにガッツを使うのもよくない。かえって傷めて回復を遅らせる可能性すらある。

とはいえ、この「からだ」へのアクセスが簡単とはいえない。体がきついというより、脳がつかれる。自分の「からだ」に関する情報や感覚をどんどん書き変えなくてはならないからだ。
先日のリハビリメニューで「この運動を、左脚メインで」と言われた時にその混乱は顕著になった。ウェイトを上げることや椅子への立ち座りをスロウで行うことを、「左脚メイン」でやろうとすると、どうにも感覚が取れない。まるですごく電波の悪い場所や、回線が遠い電話で話をしているみたいだ。思わず、「ブラジルの人、聞こえますかー」というギャグを思い出してしまった。そのくらい左脚の声が「聞こえない」。足元をみると、左足は動いているし、歪んでもいない。でも、どうにも感覚がヴィヴィッドではない。自分のしていることの「感じ」がつかめないとこんなに混乱するものかと思った。
疲れたのか、機嫌が悪いのかわからないような自分でも感じで、リハビリ後眉間にしわを寄せたまま昼ご飯を食べた。でも、昼ご飯はおいしかったので、食べたら眉間にしわは元に戻ったのだけれども。
そしてあんなに遠かった左脚もずっと遠いままではない。わからないなりに何かはわかってきていて、それは次の作業の時に少しわかったりするのだ。

地道で気長だが、夏までガンバロー。

今のところ、私は「からだの言うこと」をよく聞いていると思う。
私の中には「からだの言うこと」(と仮に呼んでいる)と「あたまの言うこと」(と仮に呼んでいる)ものがあって、基本的に手術直後から「からだの言うこと」をメインに行動をしている。
例えば、入院中。病棟の消灯は午後10時だったのだが、私はその10時を待たずに寝てしまうことが多かった。スケジュール的に言うとそんなに活発でもないのに10時前に眠くなる自分が不思議でもあったのだが、こうして休息することで回復に努めているんだな、と思った。
でも同時に別の自分も存在していた。変な表現になるが、「眠い」私と同時に「眠くない」自分も存在していたのだ。そっち側の「わたし」は「一日中暇じゃん。仕事もしていないし、ろくに動いていないし、本が読みたい。テレビが見たい。なんか、動きたい」と言う。その声や衝動もなかなか強力ではあるのだが、その声に従うと、回復は遅れるな、と感じる。だから、しない。

目的を見失わずに最後まで行く、のは何事においても大事で、かつ簡単とは言えないが、ガンバロー。

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