えこひいき日記
2015年8月7日のえこひいき日記
2015.08.07
確か化粧品のCMでもそういうのがあった気がするんだけど…「お肌きれい!何か特別なこと、してます?」と聞かれて「いいえ、何にも」と答える…というようなやり取り。CMでは「実は〇〇の化粧品を使っているんです」と続くのだが。
「〇〇」を使っていることが(おそらく)「お肌きれい」の理由(の一部)なのに、聞かれたときにはそれと答えない。ここにある心理は何だろう。
一つには「他者に情報を与えることによって、他人に利益を与えたくない」「自分だけの方法として秘密にしておきたい」という気持ち。CMでもそういう「特別感(CM中の演技に影響されて「これはわたしだけのもの」という気分を持ちやすくなるし、効果についても「特別」というイメージを抱きやすい)」をウリにしていたと思う。
もう一つは、「ナチュラルーボーン至上主義」というか。「努力してそうなった」というよりも「もともとそうである」「自分では何もしなくてもそうなる」ことを、努力して得た結果よりも尊ぶイメージだ。努力と改革、それらの継続という後天的選択によって得たものよりも、「生まれつき」の方が、何か大きな存在に能力や美徳を保障されている感じというか、ちょっと選ばれた存在っぽい感じというか、まあ、褒められてうれしくなったことからくる、一種の優越感の示し方なのかも。
ただ、100%純粋な優越感ではなくて、そこには一種の謙遜も含まれている可能性もある。自分が「普段」から「普通」にしていることを、わざわざ「努力」と呼ばわるのはどこか大げさな気がする(自慢みたいな)かもしれない。
それと、特に深くもない関係の相手にいきなり「自分がしている努力」として明かす人間はあんまりいない。それは「自分」という人間を明かすことに他ならないからだ。最初の方に書いた「他人に利益を与えたくない」「秘密にしたい」という程には思わないまでも、積極的に打ち明けたいとは思わないかもしれない(ただし、普段から自分の話しかしない、自分大好き人間は別)。
あるいは、本人が本気で「自分が普段普通にしていること」を認識していない場合もある。
レッスンでも「何にもしていないのに」という言葉はよく聞く。
多くの場合は「それが特別なこととは思っていない(いなかった)」「それが自分が問題としていることと関係している(原因となること)とは思ってもいなかった」という意味だ。
別の意味で使われることもある。「(うすうす関係があるとはわかっていたが)それを“しない”ことを選択するのにためらいがある」という意味だ。
なぜためらうのかは、様々だ。
痛みや不都合は取り除きたいが、習慣や日常を変えることは好まない、漫然と怖い、という人も多い。
また、ある種の怪我や問題は「自分の得意なことを連発しすぎて生じる」ことがあるので、「問題が生じない程度に使い頻度をセーブする」提案を「一切やめる」「取り上げられる」ことのように解釈し、反発する人もいる。あるいは「今までの癖を完全にはやめられそうもないから、変化することをやめる」という謎の完璧主義におかされている人もいる。
得意なことに依存する生活が長い人は、それ以外のことになれておらず、経験のバラエティーが極端に少ないことも多い。そういうことからも、いたずらに「慣れていないことをする」ことへの恐怖感が高まり、改善のチャンスを逃し続けることも少なくない。
Day by day.
One by one.
「少しづつ」「段階的に」…そういうふうに進むこと、それが結局確実なことを、みんなどこかで分かっているのに、どこかではわかっていないのかもしれない。
アレクサンダー・テクニックでもわざわざend-gainingという言葉を作って「一気に成果を手に入れようとあがく」行為や意思の持ち方をinhibit(いさめて)いるが、要するに止めなきゃいけないほど「普通に」やっちまう思考や行為なのだろう。私自身も様々な成果を手に入れたくてあがく。思うように手に入らなくて嫌気がさすこともある。でも。
目的の追求はカーナビの利用に似ている。ナビを有効にするのに大事なのは、目的地を入力することではない。「現在地がわかっていること」だ。カーナビでは、現在地はGPSで自動的に割り出されるようになっているので実感が持ちづらいかもしれないが、「今自分がどこにいるのか」がわからなければ、目的地までの生き方を案内することはできない。
ところがレッスンではしばしば、現在地不明のまま目的地に向かおうとする人たちに出会う。
「できよう」とする前に、まず「今どこにいるのか」。自分はほんとには何を考え、何ができているのか。していることやできていることと、したいことやしているつもりのこととの差が、どこにあるのか。それを知ること。
そういうふうに考えてもらえたらなあ…と日々思う。