えこひいき日記

2016年7月13日のえこひいき日記

2016.07.13

蒸し暑くって、街中がお湯を抜いたばかりの風呂場みたいだ。息が苦しい。
でも祇園祭だ。これは楽しい。

話は変わるのだが、
「犬は人につく、猫は家につく、といいますが本当でしょうか?」と聞かれることがたまにある。聞いてくる人の真鍮や背景は様々。例えば、犬か猫と暮らしていて引っ越しを予定している人で、「犬や猫に負担がないかなあ」と心配している場合。別の時には、動物と人間の間に理解とか愛情のようなものはあるのか、信用できる感情なのか、というようなことを考えている人からの言葉だったりする。あるいは、「こういわれているが、どうもそうは思えない」という感覚を持っている人だったりもする。
実は私自身も「犬は人に、猫は家に」は一概に言えないと、経験上思っている。ので、そうお伝えする。現在の住宅事情では、小型犬や猫は室内外になることも多い。以前は、猫は一軒家で買っている場合であれば自由に外に出て行って帰ってくる、という環境下にあり。犬の場合は小型犬は少なく、チェーンで繋がれたりして外の犬小屋で暮らしていたことが多かったのではないだろうか。そういう環境下だと、猫にとって「家(自分の場所)」と思える場所は、人間が暮らす家を中心とした「エリア」だろうし、犬のように完全に管理された状況ではないから、「人より家」という印象が強まったのかもしれない。

あくまで個人的な印象だが、犬は家族につく。自分は家族の中のどのポジションで、誰が自分のボスか、ということが人間以上に彼らには大切なことなのだ。4年ほど前、父が亡くなったとき、実家の父の犬が「衰弱し、かつ凶暴化する」という状態になって母の手に負えなくなったことがあった。相談された私が本を読み漁って理解したことは、「彼(犬)の中には今2つのマインドがある。ひとつは“お父さん(ボス)はどこ?!”という不安感で、それが衰弱の原因。もう一つのマインドは“どこを見渡しても自分の次のボスが見つけられない。では、家族を守るために自分がボスにならねば”」ということだった。これが狂暴化の原因。
これを解消する方法はひとつ。誰かがボスになることだ。その人間がボスであることを明確に彼に知らせること。いわゆる、声を荒らげて叱るのではなく「毅然とした落ち着いた態度で」それを示すことだ。効果はてきめんだった。数日で彼の態度は改善した。

一方、猫は犬ほど絶対的なボスの存在を必要とはしない。ヒエラルキーがないわけではないが、犬のそれ程強固なものではなく、状況的なものだ。それよりは飼い主個人との結びつきのほうが強いように思う。
とはいえ、こんなこともある。長期出張の折に友人が私の家に自分の飼い猫2匹を預けに来ることがあるのだが、彼らは「私の部屋」で見る「飼い主」を「知らない人」扱いする。私の部屋にいる間は、そこにいる飼い主から逃げたりするのだ。しかし元の家に帰れば、飼い主は「飼い主」に戻り、大いに甘えたりくつろいだりするらしい。ちなみに私が友人の家に行くと、彼らは隠れる。
これはどういう事態なのかよくわからないが、「場所」と「人」の」組み合わせがセット認識なのでは、と解釈してみたりする。ほら、例えばいつもは病院で合っている医師とか、いつもは制服姿で見知っている顔見知りの店員さんを街中で私服で見かけたりすると、ちょっと変な感じがしたり、声をかけるべきか否かをためらうことがないだろうか。ちょっとそういうのと似た認識なのかもしれない。

先日、実家の犬を散歩させていた時にちょっとしたことがあった。犬が通りかかったウォーキング中の人に吠えて噛みつきそうになったのだ。私は「すみません!」と謝り、相手は驚いたような、ちょっと非難のこもったような表情でこちらを見て去っていった。
私が対応したのは人間的なルールに則ってなのだが、犬が噛みつきそうになったのは彼のルール的に正しい行為だった。なので私は犬に叱るのではなく「ありがとう、でも大丈夫だよ」と伝えた。

実は、このことが起こったとき、私は犬の糞の始末中だった。場所は静かな住宅街で他に車や通行者もいなかった。そんな中、ウォーキングの人物はまっすぐに私のほうに向かって歩いてきた。ウォーキングの人にとっては、今まで歩いてきた道をそのまままっすぐ歩いてきただけで、その進行方向に私がいただけなんだろう。運動中の人にはありがちだが、ペースやコースを変更したがらない人は多いし、「ぶつからずにすれ違える」と判断してそのままコースを変えずに直進してきたのだと思う。覚えている限り、その人物は全くこちらを見ていなかった。
しかしこの行為は、犬目線で言えば「侵入」「プレ攻撃」に思える行動なのだ。私は姿勢を低くして相手に背を向けて作業をしている。そこに知らない人物がハイペースですれすれまで接近してくる。他に歩けるスペースもあるのに。犬から見たら「知らない人物がこちらを攻撃しにくる」と思えたのかもしれない。だから吠えて、「噛もうとする」という姿勢で応じたのだろう。私を守ろうとしたのだ。

犬を盲導犬や警察犬並みに訓練していたらこんなことは起こらなかったかもしれない。そういう意味では飼い主である私側の怠慢と言えるかもしれない。それを棚に上げて…ということになるかもしれないが、改めて人間の「見ているものと見えているものが違う」ことにはちょっと怖くなる思いがしたのだった。

ウォーキング中の人には、私と犬は「見えていない」のだ。
もちろん、目には見えているはず。でも、目で見えていても、「いない」存在。
人間はこういうルールをよく行使する。いわゆる人込みなどでよく使うことだが、いちいち至近距離にいる人間を「意識しない」ことをする。そういうやり方でプライバシーやお互いの尊厳を守る。身体的には明らかに領空侵犯の距離にいるのが、都会ならではの心遣いとして「ないものとす」というルールを適用するのだ。それが思いやりでもあったりする。
しかしながら、この特殊なルールを適用しなくてもいい環境(混んでいない場所、パーソナルスペースが確保される場所)でもこれを行うと、時に奇妙なことが起こってしまう。自分が「見えているけれど、いない」ことにしたのだがら「相手からもそう認識されている」と思い込んでいると、犬には通じなかったりする。犬には見えているものは見えているのだ。

クライアントさんの中にもいわゆる自意識過剰や醜形恐怖から外に出られなくなる人がいる。「自分が自分を駄目だと思っているのだから、人もそう思っているに違いない」と思い込むからだ。だが、多くの場合、自分が気にしているほどではない。で、そういう人たちに「では、例えば姿が醜かったり、服装が変な人を“駄目だな”とか“変な人だなあ”と思って注目することは多いですか?」と聞いてみると「ない」と返答されることがほとんどなのだ。つまり、彼らに見えているのは「自分」だけ。彼らの世界では目に見えているものと脳に見えているものが違っていることが多く、海馬や偏桃体のリフレインする不安や緊張だけを「現実」と思い込んでおり、なおかつそのことに気が付いていないことが多いのだ。

「(脳が)見ているもの」ではなく「見えているもの(目に、今の感覚に)」にシフトするために、身体は大きな働きをする。呼吸とか、いま目が見ているモノ、皮膚が感じているものを真に見てみると、実はストレスが減るんじゃないかと今更ながらに思う。
少しだけ、生き物としての自分を尊重してあげてもいいんじゃないか、と改めて思うのであった。『マインドフルネス』や『野生の体を取り戻せ』を標榜するまでもなく。

でも、祇園祭の人込みを歩くときには、私も人間のルールを適用するのだろう。暑さや人の近さを感じながらも。

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