えこひいき日記

2016年8月7日のえこひいき日記

2016.08.07

今日は父の命日なんだけれども、なぜか2日後がそうだと今朝まで勘違いしていて、個人的にショックを受けているところ。

相模原の事件のあと、何かがガシャンと壊れてしまったような気分になったこともあったが、世間そのものがガシャンと壊れることもなく、意外とまともに機能しているのを見て安堵を覚えている。
だからといってあの事件の問題の本質は、簡単に解決を得られることではないのだけれど。

あのニュースを聞いて、自覚している以上に動揺している自分がいた。自分が胃が固くなるほど緊張していたことに気が付いたのは夕方になってからだった。
そういう動揺を覚えるのは、あの事件が「ひどい犯人によって引き起こされたひどい事件」だったからではない。今回の事件で被害者となった障害者、障害者のご家族、施設で働く立場の人といった人たちが、私にとって無縁の人たちではなかったからだ。そしてそのどの立場の人からも、実は犯人が言ったようなことを聞いたことがあるのだ。
「生きていてどうなるというのだろう」
「役に立たない存在(だと思われているのが苦しい)(申し訳ない)」
「死んだほうが(死んでくれたほうが)楽」
「このまま成長しないでほしい。体格が大きくなって、中途半端に賢くなると世話が大変になる」

ただ、犯人と違うのは、私が仕事を通してお会いしてきた人たちは「そう思ってしまう自分」に苦しんでいた。
「こんなふうに思ってしまう自分が、許せない。違うと思う。でも思ってしまう」
それが私のところにレッスンに来る理由の一部でもあった。

「苦」と「不幸」は違うと思う。
でもストレスと疲労と無理解は「苦」を「不幸」にする。
きれいごとに聞こえるだろうか。
たとえば自分の家族や身近に障害を持った人がいなくても、介護に置き換えて考えた場合どうだろうか。子育てはどうだろうか。手間のかかる人間は全員邪魔者で一律で死んだほうがいい、と思うだろうか。
思うこともあるかもしれない。一瞬。強く。でもそれが抱く気持ちの全部だろうか。
愛していれば全部が受け止められるわけではない。しんどいからって、投げ出したいわけじゃない。でもしんどいときもある。でも笑ってくれるとそれだけでいいと思ったりもする。

そういう、なんとも言えない、割り切れない、一つの基準で評価しがたい気持ちが全部「ほんとうのこと」なのではないかと思う。
なんともいえない、割り切れない「ほんとう」を受け止めるには、そこそこ体力がいる。
身体的な健康に裏打ちされた思考力や知性もいる。
でも疲労してストレスがたまると複合的でデリケートな「ほんとう」はわかりにくいものになる。自分が「わからない」状態にあることを認めたくなくなると、端的に「いいこと」か「わるいこと」かを決めたくなる。
ライブで感じて考えるんじゃなくて、既に決めたことや決められたことに従いたくなる。

現代社会に参画している人間は少なからず「やりがい」という名の「ストレス」に依存して生きている。
順当に得た評価や地位よりも、苦労や努力、あるいは時間とお金を費やして得たそれのほうに「価値」「やりがい」を感じる人は少なくない。逆に、やりたくない仕事でも「やりがい」「達成感」「征服感(乗り越えられた感)」を感じさせて「ほら、あなたの仕事には価値があるのよ」と思わせるために適度の負荷やストレスをかける仕掛けすら、意図的に作られもしている。

「がんばっていないと、疲れきるまで仕事をしないと、早くできないと、さぼっているような気がする」
「時間ができるとそれを埋めることを考えてしまう。そうしないと、誰かから怠惰だといわれそうな気がする」
「力を抜くのが怖い」
そんなことをいうクライアントは後を絶たない。勤勉で、まじめな人たち。社会的な評価も低くないことがほとんどだ。その評価がまた彼らを縛りもする。
同時に彼らの悩みはこうなのだ。
「眠れない」
「休めない」
「元気が出ない」
「他人にいらつく」

あとちょっとだけ、疲労とストレスが加わったら…コインがひっくり返るのは時間の問題かもしれない。
優れた人として生きたい…それが間違った考えだとは思わない。でも、もしもそれがいつに間にか心の中で「優れていないと生きていてはならない」書き換えられてしまっていたとしたら、それに自分が気が付かないでいたとしたら、と考えると怖い。「すぐれている」ことの意味が1種類しかないと思い込むのも怖い。
でも、気が付くチャンスは誰にでもあると思う。
私はそのことに希望を抱く。
きれいごとに聞こえるだろうか。

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