えこひいき日記

2016年9月23日のえこひいき日記

2016.09.23

先日、9月の『「禍」→「福」ワーク』2日間が終わった。20年くらいずっとこの仕事をしてきて、みてきたことや私自身が感じた事・思ったことをぎゅっと詰め込んだつもりだったが、思いのほか私が充実感を感じていて、ちょっと驚いている。
いろんなタイプのワークショップをこれまで行ってきたが、なんだか伝えたかったことをやっとまとめて伝える機会ができたという感じがして、うれしかった。こういう感覚は初めてである。ふっしぎー。
また、参加者の方々からも個人レッスンでは聞けない(おっしゃらない)エピソードやコメントのシェアがあったりして、とても新鮮だった。集中した2日間だったし、疲れた方もいらっしゃると思うけれど、エネルギッシュな時間だったのだと思う。
参加してくださった皆さんにとって、どうかあのワークショップが何かの始まりの一歩となりますように。

ところで、私はある友人の「案内役」というか「伝言係」のような役回りになることがある。
この友人が何か転機を迎えるときに、そのきっかけを作る役割が私になることがあるのだ。このことを「えらいことや(人生の一大事)」という思いがある反面、「自然な流れやん」と思っているところがあって、だから友人の大きなキャリア転換や生活の変化に立ち会うことになっても、あまりびびったり何かを背負ったり抱え込んだりするようなことなくこの奇しき「役割」を受け止め続けてきたような気がする。
こんなことはこの友人に関してだけである。

天の差配の「橋渡し役」になることは、私にも得難い機会を与え続けてくれた。自分自身の縁ではとても出会うことがなかったような、私の人生圏の“圏外”に立つ人たちに会うことができたからだ。
とはいえ、その場の私の役割はあくまで「伝言係」。
その“(私にとって)圏外の人”と直接結ぶべき縁があるのは友人なので、私は友人と“圏外の人”が対峙するきっかけを作った後は、ただその様子を傍らで見ているだけなのである。だから実際に傍ら居ても、友人はともかく“圏外の人”の記憶に私という人間が存在した記憶が残っているかどうかも定かではない。
友人にとってそれが大きな転機であり、重要な邂逅だという感覚があればあるほど、その場に居ながらどのように居るべきなのか悩むこともあった。私はほとんど“無”の存在でいいのだろうけれども、無理に存在を消そうとするとどうも変な感じ。居ながらにして邪魔になるまいという思いとはうらはらに、そんな居方が妙に寂しいような、何か焦らされるような思いになることもあった。

どう居るべきか。どう居たら“いい”のか。“良い私”なのか。

でもそういう小賢しい思いをぶっ飛ばすような「伝言役」の役回りが先日あった。
あんまり印象的だったので書いてしまう。

会いに行った人は、某社寺のご住職。今はその寺のご住職だが世が世なら、おいそれとは会えない人物である。その方は友人が20年以上も前にお世話になった人で、近況をお知らせがてらご挨拶に行かねば…と思いつつもかなわないでいたところに、奇しくも私の一言から会いに行くことになった。お歳は90を迎えておられ、お歳なりのものもある、友人のことももう覚えておられないかもしれない…とのお付きの人の言葉。無理もないだろうなあ、と友人と話しつつ、お会いしに行った。
ご住職がどんな人なのかを単純に言い表すのは難しい。
あえて一言で言うなら、慈悲の人。ただし、それは生易しい“やさしさ”ではない。あまりにも魂がむき出しで、前に出るとかえって居心地が悪く感じる人もいるかもしれない。世俗的なウソ…つまり、謙遜とか、定型的な挨拶とか、全然通用しないし意味もないことがすぐにわかってくる。だからといってそれをたしなめるでもないし、語気が荒いとか、上からものを言われるというのではない。ユーモラスだし、お茶目。でもこわい。そして涙が出るほど温かい。

居室に通され、お話をしたが、ご住職はおんなじ質問を何度も友人にする。ああ、やはりお歳なりのものが…と思いつつ、傍らでそのリピートを聞いていたのだが、聞いていて「あれ?」と思い始めた。

表現として適切ではないかもしれないが、まるで鍵師さんがずっと開かない錠前を開けるべく鍵穴を探っているような感じがするのだ。不思議な感じだった。何をオープンしようとしているんだろう?交わされている言語の会話とは違う“お話”が同時に進んでいるような感じ。
そうしているうちに、ご住職はとてもずばっとしたことを友人に話し始めた。面会予定時間を過ぎて、お付きの方が声をかけてもご住職は話を続けておられた。覚えていない、とおっしゃっていながら、まるで旧知の人物のように垣根がなかった。信じられないようなことであると同時に、とても自然に思えた。

こういう人を前にすると、自分が“どう居たらいいのか”などと考えていること自体が、何かで適当に隠れていたい、と思っていることだと思えて、恥ずかしくなる。
ああ私はまだまだ甘い。誰かに見てもらいたいものがあるくせに、まだ何か被って適当をしようとしている。甘い。今を生ききっていない。
そういうことを知らされて、むき出しの人に触発されて、わくわくする。
不思議なことだからとか、逆にありふれたことだからとか言って、ものごとの本質を正面から丸ごと受け止めることから逃げるのはもうやめよう。少なくとも、そう努めよう。
だって、ごまかしたって楽しくないもん。

お暇するときにも、ご住職は居室を出て見送ってくださった。お付きの人に脇を支えられながらいつまでも手を振ってくださった。雨だというのに。
ご高齢のご住職がまるで少年のように見えて、忘れられない。

もしも今度またお目にかかる機会があったとして、きっと私のことも友人のことも忘れておられることだろう。また同じことを聞かれるだろう。繰り返し。繰り返し。
でも、何度忘れてもきっと必ず会える。
それには確信が持てる。鍵を開けた場所で、きっとまた会える。

不思議に勇気をもらえた出来事であった。

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