えこひいき日記
2017年8月29日のえこひいき日記
2017.08.29
奏のことを知ってくださったクライアントさんからお花をいただいた。おかげさまで遺影の前に花が絶えることがない。ありがたいことです。
この場を借りてお礼を申し上げます。あたたかいお気持ち、ありがとうございます。
今日、奏が亡くなってから初めて動物病院に行った。次男猫の「楽(がく)」のワクチン接種にタイミングだったからだ。
奏が通っていた病院に奏が亡くなった後に行く、というのは自分が予想したよりも緊張した。獣医師には奏が帰天したことはお知らせしていたのだが、改めてどうお話ししようか、などと考えているとタクシーの中でふいに涙がこぼれそうになった。そうでなくても、何でもないようなタイミングで奏のことを思い、泣いてしまいそうな瞬間が日に何度もあるのだ。だからといってその場に伏して泣く、なんてことはしないし、今していたことを放り出してしまうわけでもない。日々は一見普段通りに流れているようでいて、明らかに何かが違っているのだ。
それでも獣医師にあいさつし、話しをすると、「区切りがついた」気がした。医師の「はやかったですね」という悼む言葉に安堵したりもした。
理性で分かっていても、どこかで「私が奏を殺した(死期を早めた)のではないか」「あの選択やこの選択に誤りはなかったのか」という気持ちがゼロにはならないのだ。それが加増すると、医師から「どうして引きずってでも奏ちゃんを病院に連れてこなかったんですか」等と叱責される、というようなイメージになったりする。「医師から叱責や罵倒を受ける」なんて本気で思っているわけではないのだが、こういう「妄想」って一滴でも猛毒、って感じだと思う。本気度や時間として長くそのように思っているわけではないのに、気が付いたら自分の気分を支配しそうになる。奏の死のプロセスを生きている私の中では、こんな形で「悼む」ことの「痛み」が表現されたりする、ってことなんだろう、と理解している。「痛み」で「悼む」というか。だから「妄想」の内容は「痛い」わりに大した意味はないことも知っている。ただ、そうやって目から涙を流さない時でも皮膚の下で泣いているのだ。
わかっていても、きついなあ。わかっていても、どうしようもないよなあ。自分でも、この気持ちが通り過ぎるのを待つしかない感じなのだ。
でも、先生にあいさつができてよかった。
こうして物事は進んでいく。こうして日々を生きていく。
奏が亡くなった後、人間の「私」と猫の「楽」と「ひめ」はどうしているかというと、ぎこちなく「遺族」をやっている。普通に、平和に。そこから改めて「家族」を再構築しようとしている、といったところだ。
奏の闘病中、つられて食欲をなくし、ウェットフードを残しまくった2匹だったが、奏の死後はすぐに食欲が戻った。
が、それで「めでたし、めでたし」「もとどおり」となったわけではない。
楽がひめとの遊びの中で、ひめが叫ぶほど激しく噛む、ということが起こった。あと、楽がトイレではないところでトイレをすることが数回起こった。
楽はよくこういう行動で自分の「とまどい」を表す猫なのだ。
みんな泣きたいような、叫びだしたいような気持をかかえながら、「日常」をやっている。猫も人間も。ご飯も食べるし、ちゃんと眠る。でも、なんでもないわけではない。
あと、私の周りでは電化製品が壊れまくった。普通なつもりでも普通じゃない、わたし、こんなに悲しいんだなあ、と壊れた電化製品をもって知る…なんという顛末。
獣医師にもこの話をした(私の電化製品の話は割愛)。
「なんか、奏亡き後、あらためてはじめまして、みたいな空気なんです」と言うと「猫との暮らしって、そういう感じかもしれません」と言われた。
奏は、楽やひめと盛んに遊ぶような間柄であったわけではない。5,6歳年上だったし、むしろ少し離れて暮らしていた。楽がちょっかいを出してきても、嫌がるわけでもなく、まっすぐな目ですずしくかわしていた。
でも、いわゆるべたべたの「仲良し」ではなかったからといって相手のことが軽い存在だったわけではない。そこにいてくれて、私たちという家族の空気が成立していたのだ。
不思議だよね、関係性とか、存在って。
ワクチン接種から帰宅した楽は、タクシーの中で鳴きわめいていたのがウソのように、悠々と床に寝転んだ。五体投地式で「わがやー」と言っている感じで。
ひめはお気に入りの寝床から寝ころんだまま「おかえりぃ」と迎えてくれた。
奏だって、カタチは変わったけど、「ここ」にいる。
こんな感じでまた「家族」をはじめるのだ。