えこひいき日記

2017年2月22日のえこひいき日記

2017.02.22

シラバスというものをでっちあげる時期が来た。シラバスって、大学などで行う授業内容を学生さん向けに紹介したやつね。
生徒の顔も、人数もわからない段階で書くので、教え手としてリアリティを持つのは難しい。
だから「でっちあげ」なの。
「でっちあげ」ではあるが「虚偽」ではない。「嘘」はうっすらでも「事実」が認識できていないとつけないしね。シラバス書きの段階では「事実」は起こっていないことなんで、嘘もつきようがない。現実的な材料はどんなものになるのかわかんないけれど、「こうしてみようかなあ」みたいなことを書く。

それを考えている間、すごいスピードで今までの学生さんのことや、レッスンでのことが頭をよぎる。希望をもたらす記憶もあるが、苦い記憶も多い。普段思い出さないことでもまとまって思い出したりする。

普段のレッスンでもそうだが、特に「身体表現」とか「舞台芸術」をテーマに学校で授業を持たせてもらったりしていると、思うことがある。
「才能」や「魅力」がある人は、実は多い、ってこと。
でも、「自分の才能を理解する」「出せる状態をキープする」ことが下手な人が多い、ってこと。
つまり、その人が感じているものごとのうまくいかなさは「才能の有無」ではなくて「運用の仕方」にあることが多い、ということだ。

「運用」なんて言葉を使っちゃったので連想的に書くと、例えば資産運用。世にいう「才能」を「資産」に置き換えてみると、お金持ちなら無条件でずっとお金持ちかというとそうとも限らなくて、運用の仕方ではすってんてんになることもできる。んじゃ、一銭も使わなければ何も失わないのかというと、生きている限りそれは非現実的。食べ物やら家賃やら、生きている限り消費はつきもの。ただその消費の仕方も、理解と仕方ひとつで「消えてなくなる」と感じるのか、「得ている」と感じるのかも違ってくるだろう。
才能や身体能力の運用もこれに似ている。どう理解しどう使うかで、それが単なる死ぬまで続く消耗なのか、変化しながら何かを生み出し続けることなのか、違ったものになってくる。

才能や身体の運用をすごくベーシックなレベルで言えば、まず「身体構造を無視しない使い方をする」こと。「構造」という物理的な現実を無視して突っ走ると、ケガや負荷からくるストレスで「才能」や「高い志」があったとしても続行不可能な状態になりえるから。
でも、じゃ、「無理のない使い方」さえしていれば即「才能の開花」になるかというと、そうではなくて、それはまだ基礎段階。(でも、すごく大事)
自分で目的を決めなくてはいけない。誰かの評価してもらうことや、誰かの要求を満たすためだけではなくて。

自分がそれをできると、さらに「うまく」できると、自分のこころがヨロコブようなことって、なんだろう…と思う。

レッスンや学校で時々思うのは、本当には心が喜んでいないのに、それをすべきだと、手に入れて優れるべきだと思い込んでいる人たちの苦悩。
大きな舞台や表彰台や、タイトルを目指して頑張る人たちもたくさん見てきたけれど、正直言って、それは外側から思えるほどの「栄光」ではない。素晴らしいことであるけれど、代償も小さくない。いや、やり方によっては消耗の方が大きいかも。表彰台に上がるための犠牲の羊のように自分の肉体を扱う選手まで、いまだにいる。そしてそうした犠牲的精神を尊ぶ世論もやっぱりあったりして。
そして何より本人が、本当にこころがヨロコブものはタイトルそのものや表彰台ではなく、タイトルや表彰台はヨロコブこころをしばしカタチにする「うつわ」だとわかっているか否かは大きいかも。人生全般に言えることかもしれないけれど、特に「表現」とかいう世界に手を染めてしまった人間は、考えた方がいいと思う。
ぐずぐずした向き合いにくい自分の過去との戦いを「表現」の理由にしてしまっていないか、とか。
(しちゃいかん、とは言わないが、程度があるんだよね)
一生自分の気持ちをだまし続ける人もいる。
痛みにしか成果を見いだせない人もいる。
そういうやり方って、妙にパワーがあって、ときに人を引き付けられることも知っている。
でもそのままじゃ、病むのよ。

「あなたは何を愛している人なの?」と自分に問いかけて、どういう答えが返ってくるかな、と思う。
愛に正面から向き合うのは、正直自分も勇気があるし、まだ躊躇を感じたりもする。
でも「大事なこと」を原動力にしていく「運用」、言葉の優しさや美しさを隠れ蓑にしない“それ”のありかたを、探していきたい。

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