えこひいき日記
2018年6月11日のえこひいき日記
2018.06.11
悲しい事件が続く。アメリカン・フットボールの“悪質タックル”事件、その後に明らかになった情けない”オトナ“の事情、5歳児が両親に虐待されて殺害される事件、新幹線の中で人が刺殺される事件…
大きな見出しになって報道される事件だけでもこんなである。
世をはかなむのに十分な出来事たち。
こんな報道を見た日に、例えばその人に取ってしんどいことや大変なことがあったなら、あるいは体調が悪かったなら、心の中は簡単に「この世の終わり」になってしまえるだろう。
怒り、悲しみ、そうした感情によって呼び起こされた過去の記憶、そうした感情に呼び起こされた更なる怒りや悲しみの感情…止めどのない苦しさに呑まれてしまえるだろう。
あるいは、こうした痛ましい出来事は「起こってほしくないこと」であるからこそ、「起こってしまった」ことを「自分の無力のせい」のように感じてしまう人もいる。あるいは「〇〇は何をやっていたんだ!」と関係者や行政機関に同じ気持ちを向ける人もいるかもしれない。
事件に対する動揺と悲しみが大きいほど、その感情表現に集中しないと…つまりこうした事件が起こった日に普通の自分の生活を営むことさえも…「まるで心が痛んでいない、心の冷たい人のようではないか」と感じて、感情が激してしまう人もいるかもしれない。
奇妙なことだが、他者に心寄せる「優しさ」が、時に簡単に他者への「怒り」に通じてしまう。
「怒り」は自然な心の動きの一つだし、何かに対して抱く「感想」としては率直なものだが、その感情を原動力に何かを行うことは勧められない。
それは悲劇を起こした人間も行った行動だ。
「怒り」は理性を曇らせる。「怒り」に基づくと、「正義」は激しくなくては効果的ではないような気がしてしまうし、自分の意見に同意しない奴は「悪」に思えたりする。
だから何もするな、という意味ではない。ただ、「ただしいこと」って、本当にしようと思うと丁寧に行わなくてはならないし、けっこうデイリーな歩みなのだ。
優しい人の気持ちがつらい事件に接して(当事者や関係者だけでなく、情報として聞くだけでも心は動くから、「接する」といえる)暗い気持ちと暗い力に飲み込まれないことを切に祈る。
どうかその怒りは、根本的には「大切なものを大切に思いたいから」であることを思い出し、そちらに基づいた行動がとれますように。