えこひいき日記

2019年5月1日のえこひいき日記

2019.05.01

令和になりました。おめでとうございます。新しいこの時代が明るい安寧で満たされた時代となりますように。

4月30日から本日にかけて、私はすごくテレビっ子になっていた。いやー、テレビ視聴って、自分で検索しないネットサーフィンみたいな感じだねー。次から次へと見たり聞こえたりしたものに反応して連想ゲームのように思考が飛ぶ。それが意外と持続するのだ。
テレビ恐るべし。

とはいえ、平成を振り返り、天皇制が語られるのを聴き、上皇・上皇后となられた両陛下の、全身全霊をかけて「象徴」を務めあげられる軌跡を、テレビ番組を通して知れたことはよかった。
いろんなことを考えちゃった。

「シンデレラ」という物語がある。
「シンデレラ・ストーリー」という言葉でも有名である。
ちなみにWikipediaによると「シンデレラ・ストーリー」の意味は「「シンデレラ」の主人公のように、有名ではない一般人女性が、短期間で(あるいは長い年月にわたる苦労の末)見違えるほどの成長と幸福を手にし、芸能界社交界、その他の一流の場などにデビューしたり、あるいは資産家と結婚する成功物語をいう」のだそうだ。

Wikipediaには「短期間で」にならんで「長い年月にわたる苦労の末」という言葉も添えられているが、多くの場合、イメージされるのは前者の「短期間で見違えるほどの成長と幸福を手にする」展開だろう。
いわゆる「シンデレラ・ストーリー」においては、ときに「シンデレラ」本人よりも、その展開の「急激さ」「無名人が有名人になるという、落差」がクローズアップされる。「一般」であるところの「皆」が、こぞってうらやむミラクル・ストーリー。本人の努力や資質によって得られた結果というよりも、予想外に転がり込んだラッキーの大きさと、努力抜きだからこそ高まるラッキー感、が強く印象付けられてはないだろうか。「シンデレラ」という個人でなくても、私にだって幸運さえ転がり込んでくれればシンデレラになれるのにっ(嫉妬と羨望)、というイメージ。

でも、冷静に考えてみて…
「突然の幸運を戸惑いもせず受け入れられる人間」って、どのくらいいるだろうか。
自分の意志で宝くじを買い、その結果高額の当たりくじを引き当てた人にすら、銀行から「突然の幸運に戸惑わないために」と書かれた冊子が渡されるくらいですもの。
「突然」も、「幸運」も、人から冷静さを奪い、動揺させるに十分な破壊現象だったりする。

人は不思議なもので、幸運も不幸も自分の「予想通り」にしようとする。
「予想通り」が「望み通り」であり、「望み通り」だけが「幸福」だと思っていたりする。

しかし「シンデレラ・ストーリー」における「幸福」の訪れ方は「予想通り」ではない。「予想破り」なのだ。
では「予想破り」を「幸福」として受け止められる「シンデレラ」とは、そんな人格の持ち主なのだろうか?

…というお話を、以前とある大学の授業で行ったことがある。
今書いた通りの持っていき方ではなかったが、趣旨はこんな感じだ。舞台表現と関係のある学科での授業だったこともあり、「典型的」「古典的」な物語を、イメージだけで理解した気にならずに掘り下げて考える、という試みをしてほしくてシャルル・ペローの『サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴』を読み直すことを通してのディスカッションをしようとした。
残念ながらこの試みが学生さんたちに建設的に伝わったかどうかは疑問である。
まあ、よくある話だが、あんまり活発な意見は聞かれず、それよりも「既存のシンデレラのイメージ」が破られそうになっていることの不快感をかろうじて口にする学生の方が多かったからだ。
しかたがない。
「予想破り」の状況のただなかで、その状況を見て、考えることのできる人は、そう多くはないのだ。

澁澤龍彦:訳・大和書房の『長靴をはいた猫』の中に収録されている『サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴』の中のサンドリヨン(シンデレラ)は、王子に見いだされるのを待っている可愛いだけのラッキーガールでもなければ、継母と義姉たちにいじめられて縮こまっているだけの少女でもない。
継母の尻に敷かれた父親には助けを求めることもせず、かといって絶望してあきらめているのではなくて、義姉たちにこき使われながらもファッションのアドバイスをしてセンスの良さを認められたり、冗談を言ったり、魔法で自分を助けてくれる仙女にも意見を言ってみたりと、なかなか生き生きとしているのだ。
サンドリヨンは、仮に王子と結婚していなくてもいつか自分のやり方で幸せになる人なのではないか、世間の言う「幸せ」にはならなかったとしても「不幸」にはならないひとなんじゃないか…そんな風に思えてくる。

それはいわゆる「シンデレラ」のイメージとは違うシンデレラではないだろうか。
でも、だからこそシンデレラは「シンデレラ」になれたのではないか、と思うのだ。
たやすく理解はされず、誤解もされる人生なんだけれども。
自分の望んだものとは違う状況の中で、その違和感だけにこだわり抗い戦うのではなく、自分を見失わない人。自分にとって大事なこと(利益・利害というより、心の喜びとか、魂とか、ときに使命と呼ぶべきもの)を忘れずにいられる人。そのことに時間と力を注げる人。
結果その生き方で、他者に影響を与えられる人。

そのことを、テレビ視聴しながら思い出していた。
ロイヤル・ファミリーに生まれることは「シンデレラ」だろうか。一般人から皇族になることは「シンデレラ」だろうか。
「象徴」ということの意味。

改めて、新しい時代の安寧と幸福を願う。

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