えこひいき日記
2019年12月26日のえこひいき日記
2019.12.02
最近、大型ごみの回収を依頼していろんなものを捨てた。主に事務所で使っていたもの。中でも電化製品。
スキャナー、シュレッダー、ビデオレコーダー、除湿器、掃除機、オーディオ…そういうものが次々に壊れたのだ。それなりの年数使ってきたものではあるが、それにしても示し合わせたかのように次々に壊れた。
昨日は時計が壊れた。
日々使ってきたものが壊れて使えなくなるのは、困ることだ。
でも不思議なことに、解放感も感じたりする。
お金もかかることだが、買い替えたりするのも楽しい。買い替えずに、手放すだけのものがあることも、発見のようで楽しい。
そういうことを思っている自分に出会えるのも楽しい。
自分がどう反応するのかは、自分でもわからないから。
ところで、かつて早良(さわら)親王という人物がいた。
この方は平安京を作った桓武天皇の弟で、出家していたのを還俗して立太子されたのだがあまり立場を尊重されず、後に陰謀に加担したとして幽閉され、流罪になる途中に憤死し怨霊になったとされる人物である。平安京はしばしば彼の怨霊に悩まされたという。
(早良親王に限らず、菅原道真をはじめ、怨霊のなった平安期の人物は少なくない)
このエピソードからも相当怖いイメージを持っていたので、早良親王を祀った崇導神社の前を幾度か通ったことはあったもの、お参りしたことがないままであった。
一方、惟喬(これたか)親王という人物がいた。
この方は早良親王より時代を下ることおよそ94年後の人物で、文徳天皇の第一皇子でありながら宮廷内の闘争を避けて弟(のちの清和天皇)に皇位を譲り、京都の北の山中で生涯を過ごした人物である。才能豊かな人物だったとされ、古今和歌集にも和歌を残している。隠遁先でも土地の人に敬愛され、最後の時には「御所の川上を汚すのは申し訳ない」とわざわざ居を移して亡くなったという。彼のゆかりの場所も神社として現存している。
今回、機会があってこのお二人ゆかりの神社を巡ってみた。
崇導神社は、「怨霊を封じてある」というイメージをもっていたのだが、訪れてみた感想はそういうものとは異なるものであった。
とても精密に整えられた場所。
「相手にふさわしい座を用意して座ってもらう」感じというか。
「怨霊封じ」や「調伏」からイメージされるような、相手を恐れ、厄介者とし、とにかく相手を「排除する」ことにいそしむ技術や設備を行使するような感じではなく、
「あなたの怨念、悲しみと怒りをびしびし感じます。そういうあなたを恐ろしいとも思います。ですが、どうかあなた自身がその怒りと悲しみから解き放たれますように。怨念となって放たれているあなたのパワーを、どうか本来の気高い姿にしてこの座にお座りいただけたらと思います」という感じ。
そうか、「怨霊封じ」とは怨霊になった人を封じることではなく、怨霊になってしまった人を怨念から解放することだったのかもしれない。
そういえば、かつてレッスンに来ていたクライアントさんの中に主治医を恨んでいる人がいた。
自分がどんなに主治医に苦しめられたかを私の前でも繰り返し語っていたのだが、ある時少し態度が変わったことがあった。主治医がその人物の前で「苦しそうな顔」をしたのだという。その人物は、主治医の前でも“恨み言”に近い言葉を言っていたのだが、自分のことで主治医が「苦しんでいる」とは思っていなかったというのだ。苦しんでいるのはいつも自分だけで、医師はいつでも平然としていて、まるで自分が何の努力も苦しみも感じていないかのように次々に改善を指示してくる・・・そんなふうに思っていたらしい。
でも、何らかのきっかけで、その人にも医師がその人物の状態を心配していることが分かったらしい。それまでは、医師の指示も全部「自分を責めている」ようにしか感じておらず、自分は誰からも理解されていない…と感じていたらしい。
これも表面的に解釈すると、憎い相手が苦しんだから満足した、みたいにとられかねないが、このやり取りの根にあるのは「孤独」という「無理解」である。
クライアントさんは、自分の苦しみに医師が共感していないと感じたことを「恨み」としていたが、同時に自分だって病気や対人関係に苦しむ自分自身を「自分を失望させる、足らない人物」「弱者」と見下し、許していないのだ。そのくせ他者から「弱者から脱せよ」(医師はけしてそういう言い方をしたわけではないのだが)と言われると腹を立てる。自分を否定されたように感じて、腹を立てる。
つまり、誰が介在しようとしまいと、この人物は「苦しい」のだ。
自分を限定的に受け止め続ける限りは。
だから、この人物がちょっと解放されたのは、憎い相手が苦しんだからではなく、苦しみ知らずに思えていた人の苦しみを見て、自分も苦しいことを苦しいと思っていいんだ、と思えたことによると思う。
ただしこれは始まり。ゴールではない。それでも素晴らしい進展ではある。
惟喬親王が祀られた惟喬神社、ゆかりの守谷神社などを訪ねてみた。守谷神社の境内は昨年の台風の爪痕が残っていたが、奇跡的なほど社殿は無事。土地の方々に大事にされている様子がうかがえる。
彼はこの地でどんな暮らしをしていたのだろうか。「出家」は、宗教的な求道というよりも、身分の高い人たちが政治の場から「リタイア(無力化)」したことを示す方法の一つだったわけだが、親王の暮らしぶりが僧侶的なものであったのか、文人学者のようであったのか、はたまた遊興の人であったのか…上賀茂神社の領地でもあり、都への木材の供給拠点に居を構えていたこともあってか、親王は木地師の祖ともいわれているが、日々をどう過ごしていたのだろう。
定かではない。
ただ、印象としては極めて穏やかな感じ。でも暇を持て余しているのとも違う感じ。
彼はどうやって「怨念」を遠ざけて生きることができたのだろう。
穏やかな人物の生活はドラマに欠ける。ドラマこそが人生のように思っているとすれば、なおさらそう見えるだろう。
だが、派手なドラマによって隠されがちなエピソードに、ひとの真なるところが宿るような気がする。
その見えにくいドラマに私は心惹かれる。