えこひいき日記

2020年4月25日のえこひいき日記

2020.04.25

10日ほど前にも「京都市内の様子ががらりと変化した」と書いた。
全国規模に緊急事態宣言が拡大されたことを受け、その様相は加速し、例えば数か月前は地元民が買い物をすることが困難だった錦市場も閑散とした風景。周囲のデパートも、食料品売り場を除いて休業している状態。

そういう光景を目にして、ちょっとやるせない気分になっているときに、突然「まぼろし~」
という叫び声が脳内に木霊したりする。
私の脳内の「ヴァーチャルIKKOさん」だ。

反射的にこういうものが登場するということは、私がそれなりにへこんでいる証拠でもあり、へこんだままでいたくないと思っている証でもある。
ありがとう、私の中の反射的なレスキュー・システム。

そのほかにも「脳内・小島よしお」などが、何かへこみそうになるたびに
「そんなの関係ねー」
をやってくれたりする。

さて、オンラインレッスンを始めて2週間ほど経ったが、まあまあいろんなことがあった。「いろんなこと」を時間経過とともに並べてみるとこんな感じ。

戸惑いとトラブルから

機材トラブル

テレワーク用の機材をいろいろ購入したが、うまく作動しない!という「あるある」なことが起こる。
あれこれアダプタを購入するもなかうまくいかなかったり。
また、オンラインセッション中のマイクトラブルなど、あたふたする場面にも遭遇し、それなりに疲れ、かつ、めげる。

対面レッスンとオンラインレッスンの違いを「欠落」寄りに感知

オンラインレッスンでは音声と画像がコミュニケーション手段になる。通常から「主なるコミュニケーション手段」(だと思って)使っている「音声」と「視覚」だが、いざオンラインでやってみると普段「みている」と感じていることが実は「視覚」センスだけを意味するものではなかったことにまざまざと気づく。
そしてつい、オンラインの画像で「みえる」ものから、普段感じているような情報を引き出そうとして、無茶苦茶疲れた。脳の疲労をあからさまに感じ、午後9時くらいには眠くなるくらい。
また、大学院の授業も全学的に前期はオンラインで行うことが決まり、予定していた授業プランを練り直さなくてはならなくなった。そのことを受け「実際に体験することが大事な科目で、その部分を強化するようにというリクエストもされていたのに、初対面の学生さんに初回からオンラインでどうせいっちゅーねん!」という気持ちが押し寄せ、アイデアが出てこなくなる。

気づきと発見へ

「苦労・消費が報われたい願望」と「疲労」

例えば「機材トラブル」で紹介したようなトラブルは、私のワークスキルから考えれば「あるある」である。初心者であり、初めて取り組むことが多いのだから、最初からうまくいくことばかりではない。かつ、些細な作業にも緊張が付きまとい、どうしても体力気力共に消耗しやすくなる。
それは「過程の中で起こりうること」「むしろ避けられないだろうこと」と理解しつつも、うまくいかなさにばかり気持ちが集中したり、自分が消費したエネルギーの分だけ報われたい!(こんなに苦労しているんだから、報われてほしい、という気持ち)が強化され、かえって疲労を招いている。
つくづく「ココロ」というエネルギーは「気になることを気にする」性質が強い。良くも悪くも。
だから理性と身体構造を使って「ココロ」のエネルギーの使い道、集中力を調整しなくてはならない。
「仕方ない」「ドンマイ」「トライアルだよ、トライアル」「実現したいのだったら、しでかした失敗を悔いるよりも次を成功させることに集中するしか、どうせ道はない」の精神が重要かと思う。

オンラインで、よりできること

目の前に相手がいて身体的なコンタクトも可能だからこそできることもあれば、それがあるケースにおいては「障害」になっていたこともあるのでは、と感じた。
例えば、オンラインのレッスンでは対面の時よりも「より相手の言葉を待って聞く」、別の言い方をするならば「相手が話している最中に、かぶって話さない」「相手が話しているときに、自分が何をしゃべるか、何をするかを考えすぎて上の空になる、が起こりにくい」という印象。「話す」「聞く」ことがいつもより丁寧に行われている気がした。
だから既存のレッスン経験者には、レッスン内で話していたことや、動きを「改めてとらえなおす良い機会になった」とおっしゃってくださる方もいた。
逆に言えば、言語化することがとても不得意な人には、こうしたレッスンは向かないのかもしれない。(今のところ、そういう印象のレッスンは怒ってはいないが)

私は何をしてきたのか、「あたりまえ」とは何か

「“あたりまえ”は、常に更新されるもの」…これはオンラインレッスンの中でクライアントさんから出た言葉だ。新型コロナ以前の生活が“あたりまえ”であると思いがちだが、その生活は数十年前、いや数年前と比較しても違った生活だったはず。数十年前も、数年前も、その時行っていることを“あたりまえ”と思っていた。“あたりまえ”とはそういうふうに移り変わるもの…そこに戸惑いや違和感が生じないとは言わないが、しかし“あたりまえ”とは常に有機的に移り変わるものなのだ、ということはまさに真実である。
真実だけど、それに気づくこと、それを感じることは稀なのかもしれない。
私自身、私の既存の“あたりまえ”に執着している。それは「安心して自分が行えること」であると同時に「私という名の枠と限界」だ。
「自分が安心して“あたりまえ”に行ってきたこと」が“あたりまえ”に行えなくなった時、自分がやろうとすることが、壁を守ろうとする行動なのか、壁を(どうしようもなく)超えようとする行動なのかは、ひとによって分かれる。
そしてどちらかだか絵が合わられるわけでもない。でもどちらがより濃く現れるかによって、「ああ、自分ってこういう人なのか」と分かるような気がする。
さらにいうなら、そこで「わかった自分像」がファイナルアンサーというわけでもない。「これ、違うな」と思ったらいつでも変わっていい。異常事態とは、合理的に自分が変われるチャンスともいえるのだ。

レッスンの中でも「あの人が(あるいは自分が)こんな人だと思わなかった」という話がかなり出た。話し出した当初はそのことを「ストレス」として話していたのだが、よく考えると「前からそういう感じの人だと、気が付いていたではないか」という話も出てきたりする。
気が付いていたのに、どうして気が付かなかったのかといえば、まあ、既存の利害関係に響かなかったからであることが大きい。
それに、平安の中で、「気が付いてしまう」ことは時に恐ろしいことなのだ。
「気が付く」ことは既存の「均衡」を乱すこと。誰かが“気”を悪くするかもしれないこと。平和主義者はまず周囲の“空気”を慮り「気づき」を隠すことがある。
でも、既存の平安が少し乱れた時、自分の中に押し込めた「気づき」は芽を吹くチャンスを得る。今なら誰かを傷つけてしまうことを恐れずに、何かを変えられるかもしれない。

そしてどうなっていくのだろう。
まだまだ続くぞ。

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