えこひいき日記
2001年2月18日のえこひいき日記
2001.02.18
椅子にはちょっとしたこだわりがある。こだわりはあるんだが、それでなくてはいけないと思っているわけではない。少なくとも、こだわりを寸分たがわず具現化することの大変さは少しはわかるし、こだわりに現実の形を与える(つまり椅子の設計ですね)には、私はまだまだ技術不足なのだ。
椅子というもの、もしくは場所で作業をすることが多い割に、ひとは椅子の「使い方」を知らないよなあ、などと仕事で思ったのがきっかけで、少し椅子のことなど調べてみた時期があった。建築家の友人に協力を頼んで、人が椅子の上で行うさまざまな動作に対応する椅子の設計デザインなどということが可能なのかどうか、考えようとしたのだが、要求することが多すぎて頓挫した。つまり、要求を満たすことを「椅子の側にだけ」期待すると、破綻しちゃうのだ。使う人間の側にもユーザーとしての認識がないと、椅子と人間とのコラボレーションは永遠に完成しない。美しい椅子と暮らすにはそれなりのスキルが必要のかもしれない。
目にも身体にも美しい椅子のというのはけしてお安くない。ので、私もたくさん所有しているわけではないが、
とりわけお気に入りの2脚がある。1脚は桜の木をまる彫りにしたハイバックチェア。大変重量感のある椅子で、一目見て気に入ったが、迷いに迷って、2日間・各30分にらめっこして、うちに来てもらうことにした。もう1脚は知るひとぞ知る有名な「Yチェア」。これは以前から欲しかったのだが、某映画監督がうちにレッスンに来ることになった際に購入した。事務所でレッスン用に使う椅子はスツールかボールという、背もたれのないものばかりだったのだが、彼にはちょっと辛そうだったので手配した。以後も活躍しつづけてくれている椅子だ。
その某監督は「おつきのひと」を何人もここへ連れてくる、というか、付いてくるというか、そういう状態でいささか鬱陶しかったのだが、その「おつき」のひとりが桜の木の椅子に座ってみて「これは飾りだなあ」と言ったので内心むっとした、というより少しがっかりしたことがあった。彼の座り方はあまりお上手なものではなく、それでは世の中の椅子のほとんどが敵よね、という座り方だったからそのコメントは妥当だったのだが、「私のかわいい椅子のせいにしないでくれる!?」という気持ちと同時に、こういう人間が監督の世話をやっていることに対する絶望感があったからだ。
少し歩きづらい等の事情のある監督の撮影中の体調管理、というのが私に寄せられたオファーだったのだが、「からだの使い方」を変えることによる改善には本人の意思のあり方が大いに影響する。そして周囲もそうだ。歩きづらそうだから、と何にでも手を貸す、靴も履かせる、基本的に「NO」を言わない・・・それでは本人がいつまでたっても自分に何ができるのかを知るチャンスがなくなってしまう。それは事前に伝えてあったはずだったが、壁は厚かった。本人を「だるまさん」にすることが相手を尊重することではない、と伝えようとしても、「映画監督」という地位やそれに対する慣習的な態度、保守的な健康観(「変化」というものを「わるいこと」に寄ってしか認識できない)がそれを阻む。伝えきれないままレッスンが終わった(滞在期間が終了した)ことは未だに残念に思っている。
しかし救いはあった。それは、そもそも監督自身は「健康」などというものに頓着していなかったことだ。彼はここに来るとなぜか即・爆睡、という、なんとも凄まじい状態だったが、それをさせてあげることが私にできた最大のことだったかもしれない。彼は、映画さえ撮れればそれでよい、という人だった。自分の健康など、映画の邪魔にならなければそれでよいことなのだった。それはとても明快で、美しいことだと思った。後のご本人への手紙にも書いたことだが、私が言うのも変だけど、彼は周りのほいほい乗せられてこんなとこに来る必要は全くなく、生きようが死のうが、したいことをまっすぐにして、それで死んじゃったなら、それでいいではありませんか、と、思ったのだ。
彼はこちらのいうことなど全く聞いていない(寝てたからね)ものすごい頑固者だけれど、嫌な感情は全く残っていない。覚えているのは、事務所にかけてあるメイプルソープの写真をみて「お好きですか。私も好きです。」と嬉しそうにおっしゃっていたことなどだ。
桜の木の椅子は今は別室に移り、事務所にはないのだが、私の好きな美しい人はみなこの椅子を好いてくれる。それはなんだか私にとってとてもうれしいことなのだった。