えこひいき日記
2001年5月1日のえこひいき日記
2001.05.01
オソロシイことに今日からもはや5月。月の初めには毎度こんなことを言っている気がするが、去年といい、今年といい、時間が経つのが(経ってみると)びっくりするほど早い。まだなんにもやってないのにー、と言いたくなる。
昨日、その前の日は『使える解剖学講座』があり、そのあとには個人レッスンがあり、かれこれ午前10時半から午後7時くらいまでしゃべりつづけるという、普段のスケジュールと比較しても過密気味のスケジュールで、再び喉が若干死んだ。でも元気。
明日は午後から東京なのだが、時間があれば草間弥生の作品を観に行くかもしれない。
そのように聞こえるかわからないけれど、彼女の作品は私にとって「絶望」の象徴である。彼女の作品に頻繁に登場するドット群(水玉、あるいは密集した均一な円い物体)は私にとって「絶望の風景」である。
昔からそうだったような気がするのだが、私にとって「それ」が「絶望」の象徴であることをはっきり意識したのは映画『エイリアン2』(原題『Aliens』)を観たときだった。あの映画の中で、ミュートという少女を救出するためにリプリー(主人公)がひとりで爆破時刻の迫る建物の地下に下りていくシーンがある。迷路のような細い廊下を抜け拾い部屋に出たと思ったら、そこには見渡す限りエイリアンの卵がびっしりと産み付けられているのだ。奥ではマザー・エイリアンが延々と卵を産みつづけている。卵は次々と孵化している。主人公はその光景に一瞬呆然とするのだが、叫びながら火炎放射器をぶっぱなし、エイリアンと戦うのであるが、私が主人公なら地下室に辿り着いた瞬間で映画は「終わっている」。へなへなとすわりこんでエイリアンに殺されてしまうかもしれないが、反射的に逃げたり、何かを振り回したりして反撃したりして助かったりするかもしれない。どちらに転ぶにせよ、私の「意思」の及ぶところではない。どうなろうと、ただの偶然である。私にとっては、「それ」は意思的に行動する意欲を奪うに充分な光景なのである。
エイリアンもこわいし、エイリアンの大量の卵群という「もの」もかなり絶望的なので、映画を見たときの私の「へなへな」はエイリアンに対する恐怖が大半だったかもしれない。しかしそれとは別に、なぜか私にとっては、林立する卵様のもの、ドット群は、それがエイリアンの卵でなくても「絶望」の「象徴」なのである。なんで「それ」が「絶望」なのか、その「かたち」の中になにをみているのか、私にもよくわからない。わからないのだが、草間氏にとってもそうであるらしい。
彼女は今も精神病院の開放病棟に住み、抗鬱剤を使用しながら精力的に作品を作り出している作家である。(この様子は最近『ニュース23』の「幸福論」というコーナーでも紹介されていた)彼女には幼少の頃からあの「ドット」が実際にみえていたらしい。彼女の作品が世に出たきっかけは「精神病者は作るアート作品」というものだったが、いつまでもその枠で語られることにうんざりしてアメリカに渡り、そこでアーティストとして高く評価され、現在にいたるという経歴を持つ。
私が彼女の作品に「意識的に」触れたのは先日ベネッセで海辺に佇む彼女の「かぼちゃ」を観たのが最初だが(それまでにも彼女の作品を観たことはあるはずなのだが、「意識的に」記憶から「却下」されていた。多分、「絶望」を正視するのがこわかったのである)、めまいがするほど「絶望的」だった。でも、海辺に佇む巨大な黄色いかぼちゃは、どう考えても異様なのに、昔からそこにあったかのように自然なのだった。
付け加えるなら、この「絶望」はそこがおわり、というようなものではない。いわば「パンドラの箱」なのである。「絶望」につきあたるからこそ「希望」がはっきりとみえる。そんな感じ。「絶望」のいいとこは、きもがすわるというか、次にすることが決まるところかもしれない。それしかない、というものに。それが出来なければ「絶望」はただの絶望である。