えこひいき日記

2001年9月24日のえこひいき日記

2001.09.24

テロ事件の最中、カナダに短期留学していたいとこも無事に帰国し、先日家族みんなで食卓を囲んだ。こういう「なんでもないこと」がすごく幸せに感じたりする。私はやはり親しい人や愛している人間がこの世から消えることは、ある意味で耐えられない。その人がいなくなる分だけ私も死ぬのだ。

落ち着いてはきたものの、毎日何らかのかたちでテロ事件のことは考えてしまう。特に、この事件とは直接的な関係はなくても、自分や自分の環境の中にこの問題と「同じ構造」の問題を抱えているクライアントのレッスンでは、自然に話題に上ったりする。「同じ構造」があってもそういう「自分の問題」に飛び火することからは目をそらすクライアントもいるから、話題に出来るクライアントさんたちは、それだけ落ち着いていて「健康」なのだと思う。

私がここに「同じ構造」と書いていることは、「考え方の違った者同士がどのように共存していくか」という問題である。それぞれ「一番大事にしているもの」が違い、自分が「大事にしているもの」は相手にとっては「どっちでもいいこと」で、「相手がなぜそれを大事にしているか」よりも「自分が大事にしているものを相手に尊重してもらえない」ことに過敏になっている、という意味である。あるクライアントは親子関係の中にこの問題を持ち、別のクライアントは友人との関係の中に、あるいは会社の上司や部下との関係の中に「同じ構造」をもっている。いきなり今回のテロ事件のことを理解しようとしても、はっきりいって「よその国」のことで、実感が沸かなくても無理はない。しかし価値観の違う相手との問題と考えれば、日常的ではあるまいか。そういう相手とどう付き合うか。普通は「住み分け」が出来ていることが多く、つっこんで考えなくてもよい(悩まなくてもよい)環境が出来ていることが多いようだ。ときどき摩擦もおこすけれども、いつも顔をつき合わせているわけではなく、その場その場の「和平交渉」で乗り切ることは出来ることが多い。しかし何かの機会(多くは利害関係の浮上)で問題は激化する。そしてそういうときには、「今回の問題」だけへの対処では済まず「これまでの恨みつらみ」が重くのしかかることになる。

私は、個人的には「恨みつらみ」は溜め込むよりも、適当に元気なときに考えたほうがよいと思っている。「悩む」のではなく、「考える」のだ。

米国同時多発テロにはさまざまな意見をもつ人が多いが、今日のニュースで、イギリスの民間調査機関のリサーチによると「50%以上の人が武力報復に賛成という国は、アメリカ、インド、イスラエル」の3カ国のみで、ほかはその数値を下回っているという。(ちなみにこの調査は35ヶ国の人500人から1000人に電話や面接でリサーチしたものであり、日本はその中に含まれていないそうだ)この結果を聞いて少しほっとしている。他にも、日本やニューヨークで武力報復に反対するデモがあったというニュースも聞いた。どうかこれが政府にも届きますように。

ちなみに私が今日たまたま話した人(日本人)の中に「テロのニュースを聞いたときに、正直言って、ざまあみろ、と思った。広島や長崎の原爆のことを思ったら」とおっしゃるひともいた。私はそれは思いつかなかったのだが、聞くとなるほどと思う。しかしその方もまた、武力報復には反対とおっしゃっていた。「気晴らし」にはなっても「解決」にはならないからだ。

誰しもそうだけれども、相手に与えた痛みよりも、自分が受けた痛みにかまけやすい。基本的にそれでいいと思うんだけど、でも「それしかみえない」のはちょっとな、と思うのである。

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