えこひいき日記

2001年10月1日のえこひいき日記

2001.10.01

ビヨークというシンガーが1995年に出したアルバム『POST』の2曲目に「hyper-ballad」という曲がある。1曲目に入っている「army of me」と同じくらい好きで、気分を前向きに持っていきたいときによく聞く。
ただ、歌詞は(表面的には)「前向き」と呼べるものかどうかはわからない。「army of me」はタイトルの通り「あんたの言っていることは間違ってないけど、でもあともう一言でもなんか言ったら、私の「軍隊」が出動することになるわよ」という「いかり」の曲であり、「hyper-ballad」は、歌詞が一種の物語になっているのだけれど、山の上に夫?(恋人?)と住んでいる女性が、パートナーが目覚める前に毎朝ものを谷底に投げ落とす、という曲である。物を投げながら、自分が谷底に落ち、岩にたたきつけられるところを想像したりする。そして「谷底にたどり着いたとき、私の目は開いているのかしら、閉じているのかしら」などと言う。歌詞の中でこの女性(女性だと思うんだけど)は「そうすると少しほっとして、あなたと一緒にいることが出来るの」(すまん、意訳です)と言っている。
私の中では、この2曲は「同じこと」を「違う角度」で歌っているような気がする。
「日常」は、タフでサバイバル。毎日をただ生きるのは何とかなるけれど、ちゃんと生きるのは大変なのだ。曲の中のこの「私」は、なあなあで温和に日々を済ますのではなく、逃げずにまっすぐ生きている。そういう姿勢が多分、私を「前向き」にしてくれるんだろうと思う。

私は暫定的にこの曲を「いかり」の曲なんて言ってしまったけれど、本当には「怒り」(誰かに対する)だとは思っていない。ただ、それによく似た感情、エネルギーみたいなものは感じるのだ。「army of me」でも「hyper-ballad」でも「私」の前には誰かが存在しているのだが、「私」の「いかり」はその誰かに向かっているわけではない。(「hyper-ballad」の中で「私」はパートナーに自分の行動は何も話していないし、「army of me」においても、相手に語りかけているような形式をとりながらも、本当に相手に口に出して言っているようには思えない。「私」の中での会話なのだ。)相手によって顕在化されやすくなってはいるけれど、そこにあるのは「私」が「生きていくことのわけわからなさ」というか、生きていくことの、どうしようもない孤独のような気がする。つまり、「私」が「私」であることへの「いかり」(たいへんさ、しんどさ)なのだ。
職業を持ったり、パートナーを得たり、社会生活をしていくことで人は誰しもこの「わけわからなさ」との付き合い方を整備していくのかもしれない。職業や、宗教や、自分の理解者や、家族の存在によって、「ライフスタイル」が安定することによって「私」もまた安定する(職業や配偶者そのものがその人の「スタイル」ではなく「ライフ」化されていることもある)ことが多いけれど、「わけわからなさ」が消えてなくなるわけじゃない。「わけわからな」くても生きていけることを「わけわからなさ」と一緒に受け止めて生きていく、それだけだ。

「いかり」は(「怒り」であっても)本来「暴力」とは別のものだと思う。でも往々として、暴力行為に結びつきやすいことも事実だと思う。ほんとは、思い通りにならない自分の気持ちとか、人生にじれているだけなんだけれど、そこに誰かがいて、その誰かに甘えてしまうと、暴力行為というかたちで出してしまうことがあるように思う。ドメスティック・バイオレンスなどがよい例だ。家族とか恋人という絆があるからこそ、その前では「私」の苦しさが拡大される。赤の他人の前だったら多分こういう(あるいは、ここまでの)行動には出ないことが多い気がする。だからといって、それが他人を傷つけてよい理由になるはずもない。自分の気持ちを表す方法として暴力しか思いつけないなんて、やっぱり貧困だ。そして暴力行為は憎まれ、その行為をした者も憎まれる。やはり不毛だと思う。
でも現に(これから改善の余地や意思があっても、あるいはその意思さえなく)そういう生き方しか出来ない人間がいるわけで、それに対してどうしたらいいのだろう、と、個人としても、この仕事をしている人間としても、思う。
こういうことを以前より深く強く考えてしまうのは、アメリカの同時多発テロのこともあるけれど、それ以前に日本で起こった「テロ」(サリン事件もそうだし、小学校乱入事件等々)が気持ちのどっかに刺さったままだからだな。私はけしてテロを容認するつもりはないが、しかし同時に「そういうかたちでしか表せなかった深く根深い問題の存在」から目をそむけることが出来ない。表面的に「日常」に復帰することで問題を隠蔽することが、私にはどうしても出来ない。

相手を「作って」(その「相手」が他者である場合もあれば自分自身である場合もあるが)、その相手に対して暴言を吐くとか殴るとか巧妙に甘えるなどの「支配する」という行為で、ではなく、その気持ちを「かたち」(アウトプット)にする方法ってないのかな、と思う。
それは、ひょっとしたら、例えばビヨークのように歌の中で「現実」にすることかもしれないし、歌詞の中で、でも本気でリアルに、谷底に物を投げ落とす行為かもしれない。自分の死に様を「本気で」想像してみることかもしれない。

私は、自分のレッスンを「試しに「本気」になってみる」というシミュレーションの時間だと思っている。ほんとはあらゆる学習や、練習や、セラピーって、そういう要素があるのだと思っている。「本気」になるのって、たいへんだもん。大げさでもなんでもなく、「命がけ」だもん。だから、やけっぱちとか、反動とか、勢いだけでそうするのではなく、本当に「本気」になるにはシミュレーションが不可欠なのだ。それに、私は(個人的には)やはり一回も「本気」にもなれずに生きているのはつまらない。それをひとに押し付ける気はないけど。

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