えこひいき日記

2001年10月8日のえこひいき日記

2001.10.08

ついにアメリカ側の武力報復が始まってしまった。これまでの流れから考えると何らかの形での武力報復は避けられないとは思っていたが、しかしどこかで回避されることをずっと祈ってもいたから、なんか「やれやれ」という感じである。意外に冷静?な自分の反応に自分で驚いている部分もあるが、しかしこういう形になった以上、問題は「引き際」である。どのようにして武力報復の終わりを作るか。武力報復は文字通り「仕返し」ではあるが「解決」ではありえない。アメリカ側が「武力報復はテロ殲滅のため」などと言っているが、要するにそれは力のデモンストレーションなのであって、それで問題が終わるわけではない。アメリカが「正義」を、テロ側(と言っていいのか?まだ本当にタリバンやラディン氏がどのように今回のテロに関与しているのか釈然としないのだが)が「ジハード」(これも多くの敬虔なイスラム教徒の方たちにとっては、意味が違うみたいだが)をよりどころにするのはかまわないとしても、それがどうして「他人を傷つけてもいい」ということになるのかがわからない。「テロ」という行為には私だって反対なのだが、しかしそれがどうしてタリバンを攻撃するということになるのかが、私にはやはりわからない。本当の問題は他にあるのに、わかりやすく問題を矮小化しているような気がしてならない。

私は暴力は、嫌いだし、怖い。ただ、それと同時に、「暴力」という方法でしか自分のアイデンティティを守れない状況にある人に対して、ただその行為を忌み嫌ったり、恐れたりする以外の「感覚」が働くのも自分で感じている。その「感覚」ないし「感情」をなんと名づけるべきなのか、自分でもよくわからないのだが。

例えば、「やくざ」にしろ「マフィア」にしろ、個人としてその生き方をしている人は実はまれで、たいてい団体として存在している。「自分の生き方」としてきっちり「無頼」がやれるほど自立(自律)した「やくざ」な人間は実は非常にまれだ。自分を自分で制御できない者がある団体のルールに身をゆだねることによってかろうじて自己を保っていることはよくある。「やくざ」うんぬんは別としても、自分で自分を律しきれない場合に自分の信頼する人や団体のルールに身をゆだねてみるという生き方は、基本的にはそんなに「わるい」生き方ではないと思う。基本的には社会人や学生なら誰しも経験している生き方のパターンではないだろうか。「ゆだねる」というといかにも依存的に聞こえるかもしれないが、私だって何でも自分でやってるわけではなくて、「法律」によって身を守ってもらったり、「医療」とか「理容」とか、自分では出来ないことをプロにお任せすることで、自分の生活を快適にしている。ただ、そうした「ゆだね方」が生き方としてそんなに「わるいことではない」と言えるのは、わずかながらでもゆだねる本人の自由意志がそこにあってのことではないだろうか。私にはそんな気がしている。

それはともかくとして、映画やビデオの題材として「やくざ」や「マフィア」がかくも魅力的なのは、誰しもが「なんとなく」は感じている既存のルールへの「なんで?」や「NO」に真っ向から不器用にぶつかる人間の「勢い」に一種の「輝き」を見ちゃうのであろう。「暴力」という行為でしか自分が自分でいられないところまで、自分のバランスを崩せない(でもそういう願望はある)人間にとってはちょっと「うらやまし」く思えたりするかもしれないし、同時にそうした不安定な人たちをまとめる「やくざ」や「マフィア」の「組」「団」のルールがとてつもなく厳然としていて非情であるところが「頼もしく」思えたり、その世界にいる限り、その非情さが「絶対」や「正義」であったりする。

自分を律する勇気がない人間は他人の要求する戒律に厳しいものを期待したりすることがある。「厳しさ」に自分との絆の深さや確かさを見出そうとする。要するに、インパクトに酔っているのだ。もしそこに「わずかばかりの自由意志」さえ存在しなくなったら、ヒステリーを起こすかもしれない。

私には現在のブッシュ大統領の人気や小泉総理の人気が「やくざ映画の人気」に似たようなものに見えてきてしまった。

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