えこひいき日記

2002年5月31日のえこひいき日記

2002.05.31

数日前、久々にひどい貧血を起こした。疲れていたらしい。立ち上がろうとすると、景色が白黒の天描画のようにみえて、全然だめなのであった。翌日もその状態は引き続いていて、どうかするとすぐ景色が「白黒のスーラ」になってしまうのだった。面白いといえば面白いのだが、実務的には不便である。しかし今朝はよく眠れ(それまでは、疲れているくせによく眠れなかったのだ。疲れている証拠だ)、疲労が取れてきたのがわかった。そして今朝は偶然にもクライアントの予約変更によって午後までの時間が空いてしまったのだ。迷ったが、観にいきたかった美術展を観にいくことにした。

行った先はアサヒビール大山崎美術館。「人のかたち」という展覧会をやっており、その会期が6月2日までと迫っていることもあって、訪れるタイミングを計っていたのだった。はっきりいって、行くなら今日しかなかったのだ。
しかし大山崎美術館は、坂道の上にあり、上りながら何度も「なにもこんなときに行かんでもいいよなー」と思いながら歩いた。実際2回ほど「白黒スーラ現象」に見舞われた。でも、駅のすぐ側とは思えないほどの、木立の静寂、そこを渡る風の涼やかさは文句なく気持ちがよかった。
昔、ある美術家が雑誌の企画でこの美術館(この美術館だけではなかったが)を訪れ、「私立の美術館だからこそ実現できた趣味の世界」「ぜいたくを成立させるのは、お金より心の豊かさ、と実感できる」と評していたが、その意味がよくわかる気がする。おりしも、この美術館が所蔵しているモネの「睡蓮」の絵のごとくに、庭の池の睡蓮も見ごろ。美術館に入らない人たちも睡蓮を見にきたり、写生をしたり、お弁当を食べたりしていた。

今回の私のお目当ては、船越桂の彫刻と、プランクーシであった。もちろんその他の収蔵品もすばらしいのだが、この体力のない状態でもこの2点だけは観てから家に帰ってしのう!というカクゴで観にいった。船越桂の彫刻の表情(「顔」だけの意味ではないが、顔も含めて)の豊かさには、いささか興奮してしまった。
以前、お寺に仏像を観にいったときに、「すがた」というものの在り様を考えたことがあった。仏像の立ち姿は、いわゆる「きおつけ!」のかたちではなく、ゆるやかで曲線的なフォルムの立ち姿であることが多い。単に静止(停止?!)しているのではない、非常に多様な動きをはらんだ立位なのだ。このような立ち方であればこそ、悠久とも思える長い時間を「立ち続ける」ことができるのかもしれない。仏像は「止まっている」のではなく「立っている」のだ。「止まっている」だけの立位は「立ち」ではない。
これは日頃のレッスンの中でもよくある風景だが、「とまる」「ポーズする」あるいは「こけない」という意味で「バランスをとる」というと「左右対称シンメトリー」「体重のかかり方も左右・前後均等」ということを「当然」のごとく考え、「すがた」を「つくる」人は多い。そして「止まり方」としては息を止めんばかりの勢いで、力を入れることをする人も少なくない。「だるまさんがころんだ」のようなことをしてみると、必ずどちらかの足に体重がかからないと止まれなかったり、足をそろえないと止まれない人も多い。それはもちろん「間違い」ではなく、一つの方法ではあるが、それだけが「止まり方」と思い込むのはちょっと残念なことだ。第一、そのような止まり方はけっこうしんどい。そうは言っても悪気でそのような方法を選択しているわけではなく、そのようなやり方をするには根も葉もある。つまり、これまでの経験・・というより限定的な「イメージ」に反応して行動を選択した結果であることが多いのだ。

船越桂の彫刻の中にも、仏像と同じ佇まいを感じた。証明写真に写った自分の顔が「表情」などというものとは程遠く、自分は「自分」であるというかろうじての(?!)同一性の「証明」でしかないのに対し、どうという顔や形を作ったのではない写真の方がずっと「自分」がどんな「人間」なのかを伝えていることを目撃した体験のある人は少なくないのではないだろうか。「証明」はその目的以外のものをすべて排除するか隠蔽するが、「表現」になって現れたものは実に多様なものを含んでいる。一瞬、こちらが何を目撃しているのかを把握しきれないほどに。それがものの「いのち」というものなのかもしれないなどと、ぼんやり考えながら帰ってきたのであった。(おかげ様ですっかり元気である)

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