えこひいき日記

2002年8月1日のえこひいき日記

2002.08.01

今日から8月である。暑い。脳のゲル化が進み、思考活動はかなり停止状態である。なーんか、もう何が食べたいのかもわからなくなってくるんだが、マスカットなどの果物を凍らせて、すこしシャーベット状になったものがおいしい。

2日ほど前にとあるフリーペーパーの取材を受けた。アート関係のペーパーである。今年の2月に刊行された『サイケデリックスと文化』の中の、私の小さいエッセイを読んでくれてのことだった。あの文章は、私としては非常につたない、舌足らず感のあるものだったので(字数制限などもあったし)それでも何かを感じてくれるというのは、なんと言うか、うれしい。インタビュアーの女性いわく「「トリップ」を「新陳代謝」と表現しているのが新鮮」だったのだそうだ。取材陣は3名。会話を録音するレコーダーが回り、写真をとられたりしながらの会話は緊張するが、会話の内容自体は私も楽しむことができた。事前に知らせていただいていたいくつかの質問に対する回答は大体用意していたものの、その他の部分は「でたとこ勝負」であった。最近、初めてお会いする人たちを前にしたときに、その人たちから何を感じ、自分がどんな言葉を選び取り、何をしゃべり始めるのか、自分で楽しんでいるようなところがある。そういうことを最初から「楽しい」と思えていたわけではなく、最近楽しめるようになった、という感じなのだが、フォーマル(?)なインタビューでない部分でもわりと話が盛り上がって面白かった。しかし写真うつりはよくないかもしれんな。(それは被写体の問題なんだけれどさ)

エッセイの中で書いていることについては割愛するが、私の中であそこに書いたようなことでは、あれで終わった問題ではなく、これからも考えてみたりするだろう問題である。ひとが自分の生活に「変化」を欲するときというのは、どんなときなのだろう・・・と思ったりするのだが、それよりもむしろ、必要な変化を欲することすら自分に許可できないほどに「日常」に閉じ込められうる人間のリアリティ、「日常性」の側からこのことについて考えることのほうに重要性を感じている。表現として過激かもしれないが、日々仕事でお会いする人の中には、とっくにミイラ化しているのにまだ生きている人とか、代謝して身から離れ剥がれ落ちるべき皮膚や肉をみんなまとったまま生きているような人もいたりして、驚くことがある。そんなふうでも、生きていけるんだなあ、と感心したりすることもある。もちろんこれは物理的に肉眼でとらえられるその人の姿の話ではなくて(多少、物理にも反映されているんだが)「リアリティ」としてのその人のあり方、それが視覚変換されて私に感じられる像の話である。そのような「目」で人のからだを見ると、私はまだ肉眼視できる身体と同じ姿かたちの「からだ」を持った人間にまだ会ったことがない。一番「からだ」の部位数が少なかった人間は「目」と「手」しかなかったし、腰があってもお尻がなかったり、筋肉と骨格がぐちゃぐちゃに癒着していたり、目や足がひとつしかない人間はざらにいる。言葉にしてみるとなかなか異様だが、しかしそのような状況で生きていけることも、その人の能力なのだから、私はそれを即否定(改善?)すべき事態だとは思わない。しかし「それができる」ことと「それしかできない」ことでは意味が違うように、自分が今現在所在しているリアリティを不自由だと感じたなら、自分の「からだ」を確かめてみるのも手だと思う。
「一皮むける」という表現はそう言う物理現象を言っているのではなく、「性格・容姿・技術などが以前とすっかり変わったよくなる」ことを意味するわけだが、それが言語以上のリアリティを持って感じられたりする今日この頃なのだ。

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