えこひいき日記
2002年8月18日のえこひいき日記
2002.08.18
大きいコピー機をどけ、家具の配置を変えてみて、部屋の中の「空気の流れ」が変わったのがよくわかった。この「空気」とは「雰囲気」とか「生活動線」という意味ではなく(それもあるけれど)、「物理的な空気の流れ」である。わすか10センチほど今よりせり出ていたコピー機がデスクエリアに流れ込む空気をせき止めていたのだ。せき止められていた空気の流れが「こういうものであったのか」と感じるのは、実に新鮮な感覚だ。前の配置だって、強力に不満があったわけではない。だから、ひょっとしたら変えないまま、ずーっととはいわないけれど、もうしばらくすごしていたかもしれない。しかし変えてみればわかる。今の方が快適だ。それは、変えてみないとわからない快適さだ。あー、よかった。
快適さの岐路は思いがけないところにあるのかもしれない。そういう感覚の妙がわからずに日々を生きていくのは、単純に、つまらないなあ、と思う。その妙に気がつかないまま、漫然と生きていくのは。
ところで『共感覚者の驚くべき日常』(リチャード・E・シトーウィック著、山下篤子訳、草思社、2002年4月30日初版)という本を読んでいるところである。この本の原題は『The Man Who Tasted Shapes』というのだが、その題の示すとおりの「感じ方」を持つ人がしばしば「共感覚者」と呼ばれる。
私たちは多くの場合、五感と呼ばれる感覚(感覚器)を通して感じられる「感じ」を身体感覚として個々に安定化させている。共感覚者と呼ばれる人たちは、感覚入力とそれを「どんな感じに感じるか」のマッチングが平均的な場合とすこし違う人たちで、多くの場合とはすこし違う「感じ方」をすることが一時的なことではなく、本人の中で安定化している人たちを言う。
例えばおいしそうな料理を、その盛り付けを楽しみながら食べたとしても、「味を味わう」とは「こんな感じ」で、「料理が見える」とは「こういうこと」で・・・というふうに、それぞれ別の感覚を同時に感じることが出来て、それが「別」でありながら「同時に」感じていることであることがそんなに混乱せず日常的に行うことが出来る。同時の体験でありながら「味が見え」たり、「盛り付けの形に味がついている」という感じ方をする人は少ない。(ただし形容詞的に、あるいは後天的な経験学習の結果得た感覚として、そういう感覚はありうる。私自身、自分にとって「感じられる」もののほとんどが「みえる」と感じられるが、それは後天的な訓練や教育によって整理・獲得された傾向が強い。)
しかし、共感覚者と呼ばれる人たちの「ものの感じ方」がコモンではないからといって、すなわち「異常」なのではない。我々が「あたりまえ」としている、「味覚」が「こんな感じ」のことで、「見える」というのが「こういうこと」と感じるのは、どうしてそうなのかについても、謎なのである。例えば、盲目の人に角膜移植をしてもすぐには「見えている」とは感じられないことがある。身体的な機能事態は正常に機能していても「見えるとは、どういう感じのことか」がわからなければ「見えていても、見えない」ことがあり、その期間も人によっては数年間にわたる場合があると聞いたことがある。
レッスンに来る人の中にも、長い間身体部位が過剰な緊張や圧迫にさらされ続けていた場合、圧迫や筋緊張が減少した状態が「感覚できない」ことが、あまり珍しくなくある。多くの場合、それは「感覚のバロメーター」が緊張していた時期に置かれているので、そのものさしのまま「自分が感じていることを感じよう」とすると、わからなくなってしまうのだ。わからないことは再現が出来ない。だから「しようとすると元の緊張状態に戻ってしまい、自分では出来ない」という感想になるのだが、しかしそれは「最終結果」というわけではない。「わからない」という感覚に戸惑い、それによって「それ(戸惑い)以外に感じられていること」が封じ込められているから、よけい「わからない」ことも多いのだ。だから落ち着いて、「感覚のバロメーター」を過去のそれに寄らず、「今現在」感じていることを感じ、その感覚でもってどのような行動をすることが出来るか、それはどんな感じに感じられるか・・・という体験を重ねていくことによって、より緊張せずに行動する自由を得ていくのだ。それは一歩一歩、ゆっくりだが確実に行うべきレッスンであり、辛い痛みや症状にさらされ続けた人は「とにかく!」という感覚になりがちだが、それで改善が見られないから個々に来ているんだろうし、ここは一発腹を決めて、自分の「からだ(感覚)」と向かい合ってみるべきだろう。
感覚を「どういう感じ」と感じることがその個人の中で安定化しているかは、実にバラエティーに富んでいる。中には、自分には全く思いも寄らない感覚で物事を感じている人もいる。それを簡単かつ安易に「異常」だと思うことは、それこそ感覚の矮小化であると思う。私は仕事上、その人が困っているときのみ、その人の感じ方の世界に踏み込むわけだが、多くの感覚は「付き合い方」さえわかれば「個性」や「才能」として十分生かせるものであり、「治す(直す)」必要などないものなのだ。でも、逆にいえば、付き合い方がわからないことが、理解の仕方がわからないことが、本人とその周囲の人を不安にさせたり傷つけたりするんだなあ・・と思うのだ。
この本の中で語られている(研究対象となっている)共感覚者は「不随意の体験」によってそういう感じ方になってしまっている人たちになっている。まだ最後まで読んでいないので、結論めいたことは何もないのだが、感想として、思うことの幾つかを書いてみた。そのついでに書くと、日本人に生まれた方が共感覚的感覚に対する一般的認知度は高いから、生きやすいかもしれないなあ・・・と思ったりする。日本人の認識は、欧米言語圏の人たちに比べるとメディアミックスがすすんでいる。一つの言葉を幾通りもの書き言葉で表現できるなんて、アルファベット言語圏ではないことだし、そのことによる感覚世界の違いはなかなか侮れないものがある。(この話を書き出すと長くなるので、また今度)
なんでもないことだが、例えば風鈴の音色を聞いて「涼しい」と感じることは、「異常」ではない。しかし感覚入力としていうならば、「音」として聞いたものでなぜ触覚として「涼」感が呼び起こされるのか、不思議といえば不思議でもある。水盤に花をいける。「涼しそうにみえる」という感想を持つことは「異常」ではないが、しかしなにが「涼感」を自分に感じさせているのか、考えてみると不思議である。ともあれ、いろんな感覚を感じて、死ぬまで生きてみたいと思う今日この頃である。