えこひいき日記

2003年1月15日のえこひいき日記

2003.01.15

最近は寒いせいなのか、早めに寝て遅めに起きるという「爆眠(冬眠?)」傾向の日々にある。特に年明けからはたくさん夢を見る。
私は比較的、ロング・ストーリーの夢を見る。全て普通に色も音もある夢である。数年前に睡眠中の脳波を調べたときには、私は比較的レム睡眠の持続時間が長いみたいなので、そのこととも何か関係あるのかもしれない。ロング・ストーリーの夢の場合、小説のようにどんどん事態が移り変わるので、かなかなひとことで「こんな夢」というのは難しい。そういう夢の中での私は、覚醒中の私と同じように考えたり、動いたりして結構忙しい。夢の中でも結構痛かったり、痒かったり、感覚があるし、起きたときに「疲れている」という感覚はないが、結構「今日もいろいろあったな」などと思いながら起きることもある。
それに比べると、短編の夢の場合はたいてい、眠りが浅く、どこか覚醒時の意識を引きずった夢であることが多い。つまり、現実の状況とリンクした「パターン化した夢」であることが多い。もう典型的な「パターン夢」としては、何か思うように仕事がはかどっていなかったり、どのような方法で物事を進めるべきかぐねぐね迷っているときなどは、決まって「今日突然試験日で、なのに何も勉強していない」という夢を見る。ただ面白いのは、夢の中でも変化があって、かつては試験を受ける私は「中学生か、高校生」だったのだが、最近は「大学4回生」である。夢の中で「中学生」だった頃は(もちろん、実際にはとっくに中学なんか卒業しちゃっているのである)夢の中でおろおろするばかりだったのだが、あるときに夢の中で果敢に問題にチャレンジしたことがあって、それ以降の「わたし」は「大学生」になったのであった。こういうのも「成長」というのであろうか。

夢はたくさん見るほうだし、夢を見るのも楽しいのだが、いわゆる既存の「夢診断」のようなものに納得したことはいまだにない。「夢診断」の多くがユングやフロイトの心理学・・・つまり西洋文化の中の心理に基づくもので、異なる文化圏に住む私には「わかるといえばわかるが、ぴんとこないところがある」せいなのかもしれない。あるいは、私の周りに居た「夢」や「心理」に固執する人物というのが、シンボルやメタファーは目に入るが、何がシンボライズされているのか(何が「シンボル」を成立させているのか)を見る「視力」がないことにちょっと失望していたからかもしれない。象徴や形象というのは、とても魅力的で美しいが、それに溺れるのは必ずしも美しいとは思えない。ちょうど、「からだ」においても「ポーズをとる」ことに夢中で、「どのようにそれがかたちづくられているのか」に目が向かないために、いつまでたっても真には「自分の身につかない」というのに似ている。

夢見もまた一つの「意識の状態」と考えるなら、それはその人の「からだ」の恒常性と浅からぬ関係にあるようである。「意識」も「からだ」も、とかく違和感や痛みなどを覚えたときにしかその存在を認識しないことが多いが、認識していないときにもそれらは存在しており、しかもそのような「意識」や「からだ」の存在の方がはるかに大量なのである。自分の人生の大半を占める「ふつう」の「意識」や「からだ」が、認識の中で姿をけしたまま存在していることの方が、なんだか相当不思議な気もする。
ともあれ、「夢」のパターンを通して自分の「認識の中で姿をけしたまま存在しているもの」の存在に気がつく、ということは、ままあることである。普段の動作の中で、どうも意識しにくい部分が、夢の中でも決まって「動かない」「受身で終わる」部位と相応していることがあったりするのだ。また、睡眠中の夢ではないが、ある種の白昼夢というか、イメージ・ビジョンのような感じで、「認識の中で姿をけしたまま存在しているからだ」、つまり「無意識のうちに癖になっている行動」に気がつくこともある。例えば、レッスンで長年腰痛をかばって過剰に緊張した「からだの使い方」をしていたことに気がついたはものの、その緊張をあっさり解放することがこれまでの努力を無にするような気がして、なかなか緊張させることを止められなかった人が「自分の胴体に鉄の棒が刺さっている」という夢のようなものを見て、夢の中でそれを抜き、そのことをきっかけに緊張を解放する糸口を掴んだ、ということがあった。また、自分が抱えていた対人関係の葛藤を「自分の腕の中で暴れる小動物を必死に逃げないように押さえつけている自分」という白昼夢のようなビジョンで認識した人もいた。その白昼夢のような意識の中で「必死に押さえつけている」自分に気がついて、ためしにそっと手を緩めてみたら、かえって動物は「自分の腕の中でおとなしくうずくまった」のだという。
私自身、ときどきパターン化した夢の中で感じることだが、そうした夢の中では現実よりも明確に逃げようのないかたちで問題の只中に放り込まれるような気がする。現実の世界なら、気持を逸らし誤魔化す材料に事欠かないが、夢の中ではそうではない。夢の中で一種の「閉じ込められ感」を感じたり、自分の動作を緩慢に感じるのは、そのせいかもしれないと思う。自分が「みているもの」の意味を受け止められないうちは、それはただの悪夢かもしれない。でもくりかえし自分に突きつけられるそのビジョンには、「みせられるべき」意味があるのかもしれない。ちょうど無意識化した「からだの使い方」を「痛み」とか「困難感」という差し迫った感覚が生じたときにだけその存在を認識し、それゆえに「なおらない」「しかたがない」と、対象を「悪者」扱いしがちのように。しかしそれは単に「受け止め方がわかっていない」だけのことかもしれない。

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